追悼

追悼・村上和雄氏

長年、『致知』をご支援くださっていた筑波大学名誉教授の村上和雄先生が4月13日、逝去されました。享年85。
先生は遺伝子工学の世界的権威として酵素レニンやイネの遺伝子解読など数々の業績を残される一方、遺伝子の精緻な働きが人智を超えた存在抜きに語り得ないことに気づき、その存在を「サムシング・グレート」と名付け、社会に広められました。科学の枠を超えた活動は教育、芸術、宗教など多岐に亘り、ユーモアに溢れた講演は国内外の数多くのファンを魅了しました。
ここに先生とご縁の深かった方の追悼のお言葉を紹介すると共に、長年のご支援に深い感謝の意を表します。

    この記事は約8分でお読みいただけます

    弔辞

    茨城県科学技術振興財団理事長

    江崎玲於奈

    優れた科学者であり教育者であった村上和雄さんのご逝去、心からお悔やみ申し上げます。

    つくばのサイエンスの発展に絶大な貢献をされましたので、実は一昨年(2019年)の6月、つくばサイエンス・アカデミーから表彰状を差し上げました。

    「あなたは平成12年11月のつくばサイエンス・アカデミーの設立に際し中核的な役割を演じられ、その後も多年にわたり副会長として当アカデミーの発展に多大な貢献をされました その卓越した功績を称えここに謹んで表彰いたします」

    これをご自宅にお届けしますと、直ぐに私の自宅に元気なお声で電話があり、久しぶりに雑談にふけったのですが、これが最後になるとは思いませんでした。あなたが南日康夫さんや多くの教員たちと共に、私を筑波大学学長の選出に努力してくれてからもう30年近くになります。私たちは大学刷新に努力しましたが、その一つの試みとして新しく設立した先端学際領域研究センターの所長として、あなたが大いに成果を挙げてくれたのも昨日の事のように覚えております。

    あなたは研究者として優れた才能を発揮されました。1983年、高血圧の黒幕である酵素「レニン」の遺伝子解読に成功され世界的に注目されました。そして高血圧治療に大きく貢献されたのです。その結果、1995年にはつくば賞、1996年には日本学士院賞受賞の栄誉に浴されました。つくば賞においては、あなたと共に助教授から助手まで5名の方々も共に受賞されましたが、これはあなたの弟子思いの表れかもしれません。

    私の書架には1999年4月22日付けのあなたのサイン入りの貴著、『人生の暗号』が並んでいます。科学者として、そして教育者としてあなたの絶大な貢献は永遠に称えられます。どうか心安らかにお休みください。

    サムシング・グレートを浸透させた村上先生の功績

    文学博士

    鈴木秀子

    村上和雄先生といえば、ユーモアに溢れた温かい出会いの数々が頭に浮かびます。

    最後にお会いした時、奥様もご一緒でした。「ご家庭ではいつも奥様とどんな会話をなさるのですか」と質問すると、先生は目に笑みを湛えながら、しかも真面目な顔でこうおっしゃるのです。「馬と鹿が一緒にいるとどういう現象が起こるかという研究課題です」。このように、先生が偉大な科学者であることを忘れ、ユーモアにのみ込まれてしまうこともたびたびでした。

    レニンの遺伝子暗号の解読など遺伝子工学における先生の業績は世に遍く知られるところですが、先生のもう一つの側面は、人智を超えた大いなる存在を「サムシング・グレート」という言葉で国内外に浸透させられたことです。シスターの私はこの言葉を神と理解していますが、神を信じない人でも身近に感じる言葉として先生はお使いになり、それは社会に広く受け入れられました。

    先生は一つの研究目標に向かう時、仲間との人間関係、チームワークをとても大切にし、一人ひとりの個性を引き出すことに意識を向けられました。先生が研究を成功させサムシング・グレートの働きを実感された背景には、そういう優れたお人柄もあってのことなのでしょう。

    先生はかねがね、一人の人がノーベル賞をもらう背景には、時に落胆を伴う失敗を含め無数の人たちの研究や努力があると話されていました。人間とはそのように繋がりの中で生きる存在であり、さらに深い部分ではサムシング・グレートとの結びつきがあります。そのことに思いを馳せながら明るく温かい心で前進を続けていく姿勢を、私は村上先生に教えていただいたように思います。

    村上和雄先生を悼む──笑いと祈り──

    臨済宗円覚寺派管長

    横田南嶺

    村上和雄先生の訃報を聞いて、驚きと悲しみの思いでいっぱいになりました。私は、筑波大学を卒業していますが、在学時には、専攻が異なるのでご縁はありませんでした。致知出版社のおかげでご縁ができ、懇意にさせてもらってきました。

    お元気な頃には、1年に何度も食事をしながら、勉強会をさせてもらってきました。いつもお静かで、ユーモアを絶やさず、それでいて時々鋭いことを言われて、私などハッとしたものでした。

    先生は、科学に疎い私などにも分かりやすく生命の神秘を解説してくださいました。極微のゲノムに百科事典約3,000冊分の情報が書き込まれていることや、一つの命が生まれる確率は1億円の宝くじに100万回連続して当たることに匹敵するという譬えなど、知るだけでも感動しました。

    そして、極微の空間にこの万巻の書物に匹敵するほどの情報が、いったい誰の手によって書かれたのか、先生はその存在を「サムシング・グレート」と名づけられました。「サムシング・グレート」の言葉は多くの人に知られるようになりました。特定の神仏を信仰しない人もこの言葉によって、大いなるものの存在を感じることができます。

    私が、懇意にさせていただいていた頃は、遺伝子の働きと「祈り」について研究されていました。私も、東日本大震災を契機に「祈り」について考えるようになっていた頃でもあって、先生には多くのことを教わりました。

    一度円覚寺でご講演いただいたこともあったのですが、もう一度円覚寺で講演したいと言って下さいました。「是非とも」とお答えしながらも、先生のご体調がすぐれなくなり、とうとう実現することができませんでした。

    先生のご恩に報いるためにも、先生のように常に「笑い」を忘れずに、「祈り」の心を大切にして、少しでも多くの方に生命の尊さに目覚めてもらうよう勤めてまいります。

    村上先生が求められた世界

    五井平和財団会長

    西園寺昌美

    村上和雄先生という尊い方を失ったことは私にとりましても深い悲しみです。先生と『致知』で対談させていただいたのは2004年の春。この対談をきっかけに私も『致知』を愛読するようになり、共著も出版できたことを思うと、感慨深いものがあります。

    村上先生のことで真っ先に思い浮かべるのは、その穏やかで謙虚なお人柄です。遺伝子工学の世界的研究者であるにも拘らず、それを鼻に掛ける素振りは全くなく、相手がダライ・ラマ法王であろうと、名もない市井の人たちであろうと、分け隔てなく対等に接せられるお姿は、まさに人間愛そのもの。その生き方を通してサムシング・グレートを体現されたと申し上げても過言ではないでしょう。

    村上先生は宇宙や人体の大調和に鑑みて利他的遺伝子の存在を確信し、魂と遺伝子との関わりを解き明かすことを生涯の目的とされていました。残念ながら、志半ばで倒れられましたが、人類が一つに繋がる新しい時代を見据えた先生の研究は、いずれ大きく花開くものと私は信じています。

    いま新型コロナウイルスのパンデミックの波が世界を蔽っています。人類滅亡の一歩手前で起きたこの出来事は偶然ではなく、国境や人種、貧富、思想といった壁を越えて人類が共に手を携えて歩んでいく世界が到来しつつあることを予感させます。村上先生は宗教と科学が一つとなって社会が発展することを念願されていました。魂と遺伝子の関係が解明される日も決して遠くないかもしれません。

    先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

    村上和雄先生のこと

    日本BE研究所所長

    行徳哲男

    不遜の誹りを受けるかも……小生、村上先生のご逝去に、お悔みもご冥福を祈るつもりも全くありません。小生にとって先生は、余韻と余情の中で生きておられます。

    対談『遺伝子は語る』では泊まりがけで談義にうち興じたこと、『サムシング・グレートは語る』『健体康心』等々で語り合った命の素晴らしさ、北は北海道、南は沖縄までの講演行脚の数々、古典落語的ユーモア漂う先生の語り草……思い出は尽きません。

    先生を味噌に喩えて失礼。上質な味噌は、味噌臭さのない味噌。遺伝子研究の世界的権威でありながら、研究者らしさも学者くささもない。いつも先生は命の不思議に手を合わせておられました。

    世界中で人間が今、コロナで苦しみのたうち回っています。先生、時には往生してください。つまり、向こうに往かれたからには時にお帰りいただいて、希望と勇気を与えてください。死ぬことは生きることであると私は信じます。

    命の不思議さと素晴らしさを教えていただいた先生に、西行法師の詩を贈ります。

    なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

    合掌

    「21世紀は日本の出番が来る」

    致知出版社代表取締役社長

    藤尾秀昭

    村上和雄先生が本誌に初めて登場してくださったのは1993年9月号特集「人生限りあり」、先生が57歳の時でした。

    以来、先生とのお付き合いは約30年にもなります。遺伝子工学の世界一筋に生きてこられた先生は、自らの研究者人生を振り返りながら、感動と志と感謝こそが、OFFになっている遺伝子をONに切り替えていくという力強いメッセージを私たちに送り続けてくださいました。

    これまで先生に本誌にご登場いただいたのは、200回近くになると思います。2008年(6月号)から始まった「生命のメッセージ」と題する連載には、その溢れんばかりの好奇心をベースに、100名以上の各界で活躍されている多彩な方々とご対談いただきました。

    2018年(7月号)からは「生命科学研究者からのメッセージ」をご執筆。コロナ禍の只中で、我われ日本人の生きるべき道筋を、渾身の力を振り絞り、示し続けてくださいました。そして、本誌6月号でいただいた原稿が絶筆となりました。

    村上先生には、その間、数えきれぬほど多くの教えをいただいてまいりましたが、中でも8年前、本誌の創刊35周年記念シンポジウムに登壇された時のお話がいまも忘れられません。

    「私は21世紀は日本の出番が来ると思っている。あるいは日本の出番にしたいと思っている。そして、日本の時代が来るにはこれからの『致知』の躍進が不可欠で、その考え方に共鳴する人が増えることが大切である。私にとって致知出版社は、ただ単に一つの出版社ではなく、日本を変えるために必要であると思っている」

    村上先生のこの言葉を真実にすべく、さらに前進していくことをお誓いして、お別れの言葉とします。先生、長らくのご指導、ありがとうございました。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。