2020年1月号
特集
自律自助
  • 作家北路 透

豊田佐吉に学ぶ

豊田佐吉の名は、自動織機の発明者としてつとに有名である。しかし、その波乱に満ちた人生や、偉大な業績の源になった精神については意外に知られていない。10年にも及ぶ調査研究を経て、このほど致知出版社より『小説やらまいか 豊田佐吉傳』を上梓した北路 透氏に、同書に込めた思いを交えて、偉人の知られざる素顔を繙いていただいた。

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誰もが知っているのに誰もが知らない人物

豊田佐吉の名は、教科書などを通じて広く知られています。しかし、自動織機しょっきを発明した人物ということ以外はほとんど知られていないのが実情ではないでしょうか。自身がいしずえを築いたあの世界のトヨタグループとの結びつきについても、十分認識されているとは言い難いようにも思われるのです。

誰もが知っているにもかかわらず、誰もがほとんど知らない人物。それが豊田佐吉ではないでしょうか。

佐吉と同じ愛知県の人間である私は、敬愛してやまない地元の偉人についてのこうした実情を、非常に残念に思っていました。

郷学きょうがくという言葉があります。郷土の偉人を発掘して、後世に知らしめる学問のことです。私が事業の傍ら『小説やらまいか 豊田佐吉傳』(致知出版社)を上梓じょうししたのは、まさしくこの郷学の実践であり、一人でも多くの方に豊田佐吉のことを知っていただきたいという切なる願いに突き動かされたからです。

あいにく執筆のり所となる資料は極めて少なく、その実像に迫るには随分骨が折れました。しかしこれは逆に言えば、作家として想像力を膨らませる余地が十分にあるということでもあります。『小説やらまいか』はあくまでもフィクションですが、執筆のベースとなる調査研究に費やした時間は10年。厚いベールに包まれていた豊田佐吉の人物像や苦闘の人生行路が、当時の時代背景と共に臨場感を持ってよみがえってくるよう努めました。心の内で佐吉と対話を重ねつつ、創作の醍醐味だいごみを存分に満喫することができ、私にとってはまさしく至福の時間でした。

そこから垣間見えてきた豊田佐吉という人物は、華やかな成功者のイメージとは懸け離れた木訥ぼくとつなおじさんです。緊張すると吃音きつおんになり、人前に立つことは苦手だったようで、おそらく道ですれ違っても、相手が日本の近代産業の礎を築いた人物だとは想像もつかないのではないかと思うのです。

発明家として有名になってからも、無名時代から多大な支援を受けてきた恩人・石川藤八とうはちの法事に参列する時には、乗ってきた人力車を横づけにするようなことをせず、いつもずっと手前で降り、歩いて会場に入ったといいます。佐吉は、燃えるような闘魂で人生を切り開いた人ですが、その一方で、大きな成功を収めた後も決しておごり高ぶることのない謙虚な人間性も併せ持っていたことがうかがえます。

事を成す人には、

「一念るところいわおをもとおす」
「謙虚にして驕らず」

という姿勢が共通して見受けられますが、これらはまさしく豊田佐吉という人物を端的に表す言葉でもあるといえましょう。数ある歴史上の人物の中でも、私がとりわけ豊田佐吉にあこがれを抱き、小説に著そうとまで思ったのは、こうした素晴らしい人間性に惚れ込んだからなのです。

もう一つ、この作品の創作段階で大きな契機になったのが、平成26年に母親を亡くしたことでした。心から愛していた母の死は大変なショックで、私はしばらくひどうつ状態に陥ってしまいました。そして心の痛手を癒やすために出かけた旅先で、かねて構想を練り続けていた豊田佐吉の小説について、天から降ってくるようにアイデアがひらめいたのです。佐吉の母親を語り部にして物語を紡ぐ着想は、その閃きを通じて得たものです。それはまさしく母からのプレゼントでした。

ある宗教の信者であった母は生前、どんな宗教であれ、信仰のあつい人を私は尊敬するとよく申していました。日蓮宗に深く帰依きえし、貧しい家計を懸命に支えながら息子の幸せを願い続けた佐吉の母・ゑいの姿は、私の母の姿と見事に重なります。母と私の関係を、ゑいと佐吉の関係に投影し、さらに克己努力の大正の男であった私の父を佐吉の父・伊吉と重ねることで物語は俄然がぜん動き始めたのです。

いつか両親に褒められるような作品を書きたい。それが長らく心の内に温めていた私の願いでした。そしてこの作品は、両親が手にすればきっと褒めてくれるに違いない。『小説やらまいか』を書き上げたいま、私はそんな手応えを感じています。

作家

北路 透

きたみち・とおる

昭和34年愛知県生まれ。大学卒業後、新聞記者を経て、平成7年社会保険労務士事務所を開業。賃金制度の提案に特化したコンサルティングで中小企業を支援。事業の傍ら、作家として郷土の偉人を掘り起こす活動にも取り組む。「豊田佐吉を名古屋で蘇らせる有志の会」発足。著書に『小説やらまいか 豊田佐吉傳』(致知出版社)などがある。