2021年9月号
特集
言葉は力
対談
  • (右)東洋思想家境野勝悟
  • (左)下掛宝生流ワキ方能楽師安田 登

先人の言葉に
導かれて生きてきた

古来、読み継がれてきた古典の言葉や先人の教えには、時代を超えて人生を潤す不思議な力がある。東洋思想家・境野勝悟氏と能楽師・安田 登氏は、共に少年期に優れた先人の言葉と出合い、人生の基礎を築いてきた。それぞれの歩みを振り返りながら、支えにしてきた教えや心に響く古典の言葉を縦横に語り合っていただいた(写真:境野氏が『致知』と大書された扁額の前で)。

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教師から能楽師の道へ

境野 安田先生は能のワキ方の重鎮 じゅうちんですが、大変な読書家でもいらっしゃいますね。きょうはお会いできるのを楽しみにしてきました。

安田 いや、人生の大先輩にそう言われると恐縮してしまいます。境野先生は昭和7年のお生まれだそうですね。私の能の師匠は6年生まれで3年前に亡くなりましたが、それにしても先生はお元気でいらっしゃる。

境野 幸い元気にはしていますけど、もう89年間生きてきましたからね、さすがに耳は少し遠くなりました(笑)。
僕が先生の本を読んで驚いたのは、ご専門の能楽に留まらず、日本の古典から中国、西洋の古典まで渉猟 しょりょうされていることです。『聖書』はヘブライ語やギリシャ語で読まれているといいますしね。このような知識をどのように身につけられたのか、ぜひその辺りもお聞きしたいと思っているんです。

安田 では、僭越 せんえつながら私から先にお話しさせていただきますが、実を申し上げますと、私は高校生の途中までほとんど勉強をしたことがないのです。

境野 それは意外ですね。

安田 65年前に千葉の漁師町で生まれたのですが、その頃の町の中学の高校進学率は40%で、我が家もきょうだい4人の中で大学に進んだのは私だけ。両親は教育には まったく無関心でしたし、大学に行くという選択肢がないくらいの環境で育ちました。ですから、小学生、中学生の頃は試験のために勉強をしたという記憶はありません。中学時代はアマチュアの無線クラブやサッカー部をつくり、高校時代はバンドに夢中でした。
そんな私が勉強に目覚めたきっかけは、高校時代、一人の漢文の先生に出会ったことです。大漢和辞典の編集に携わった方で、この先生が嫌いな生徒はいっぱいいたんですけど、私はなぜか好きでしたね。先生にお願いして漢文研究会をつくっていただきましたが、その時用意されたテキストが訓点・返り点のない白文 はくぶんでした。

境野 漢文を白文で。いやーそれ自体、驚きです。

安田 大学に進むとナイトクラブのピアノ演奏のアルバイトで学費を稼ぎ、大学院に進もうと考えたのですが、親から突然お金を用立ててほしいと言われて貯金を渡したために、進学が叶わなくなった。それで千葉県の私立高校で教員として働き始めたんです。
ところが、この私立高校は生徒の机にナイフが刺さっているような荒れようで、先生方は武器を持って授業に行きます。私は武器を持つのが嫌でしたので、彼らに合った教材をつくるなど自分なりに授業を面白くするための工夫をしたのですが、校長先生が「指定の教科書を使わない授業はまかりならん」と。それでその学校を辞めて、教員採用試験を受けて千葉県の公立高校の教員になりました。
千葉県の教員は5年務めました。能と出合ったのはちょうどその頃ですね。ある時、同僚から誘われて初めて能舞台を観に行き、そこで鏑木岑男 かぶらきみねお先生の うたいに衝撃を受けました。舞台で謡っているはずなのに、まるで私の隣で謡っているような響きがある。その音の響きに魂が震えまして、すぐに電話をして、「お稽古をしてください」とお願いしました。
もちろん、その頃はプロになる気などありませんし、趣味で続けていたジャズにこの声の出し方を取り入れられないか、という軽い気持ちでした。一方、先生のほうは私がプロ志望だと思ったらしく、月謝も取らないし指導も厳しい。おかしいなと思いながら稽古を続けているうちに、気がついたらプロになっていたというわけです。

境野 教師は何年やられましたか。

安田 千葉県と東京都でそれぞれ5年ですから、計10年です。当時は県立も都立も教員の副業が認められていましたので、しばらくは月曜から金曜までは学校で授業をして、土日は舞台に出るという二足の草鞋 わらじの生活でした。

下掛宝生流ワキ方能楽師

安田 登

やすだ・のぼる

昭和31年千葉県生まれ。高校教師時代に能楽と出合い、ワキ方の重鎮・鏑木岑男師の謡に衝撃を受け27歳で入門。現在は、ワキ方の能楽師として国内外を問わず活躍し、能のメソッドを使った作品の創作、演出、出演などを行う。『身体感覚で「論語」を読みなおす。』(新潮文庫)『NHK100分de名著平家物語』(NHK出版)『野の古典』(紀伊國屋書店)など著書多数。