2019年2月号
特集
気韻生動
対談
  • (左)恵那市佐藤一斎言志四録普及特命大使深尾凱子
  • (右)福岡女子大学名誉教授疋田啓佑

佐藤一斎

その気韻生動の生き方に学ぶ

佐藤一斎が40年の歳月をかけて、その代表的名著『言志四録』を書き終えたのは82歳の時。特に晩年に著した『言志耋録』は3年という短い期間で纏め上げている。晩年になるほどいきいきと執筆や子弟教育に打ち込んだ一斎の人生と教えを、一斎の玄孫である深尾凱子氏、一斎全集の編纂にも携わった福岡女子大学名誉教授・疋田啓佑氏に語り合っていただいた。

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佐藤一斎の玄孫として生まれて

深尾 きょうは儒学の研究者でいらっしゃる疋田先生と佐藤一斎いっさいや『言志四録げんししろく』についてお話ができるというので、このような厚い本を持ってまいりました。

疋田 ああ、これは久須本文雄くすもとぶんゆう先生がまとめられた『言志四録 座右版』ですね。久須本先生は九州大学の私の先輩で、実家が禅宗の寺院だったこともあって、禅仏教を深く研究された方でもありました。それにしても、付箋ふせんがいっぱい貼られていて、実によく読み込まれている。

深尾 クリスチャンが『聖書』を手放せないように、この本は私のバイブルなんです。あまりにたくさん付箋を貼ったものだから、何が何だか分からなくなっちゃいましたけど(笑)。 

疋田 お聞きするところでは、深尾さんは佐藤一斎の玄孫やしゃごでいらっしゃるそうですね。

深尾 ええ。一斎の八女・しんと結婚したのが一番弟子の河田迪斎てきさいで、私はその家譜に属します。子供の頃、父から「我が家は佐藤一斎という幕末の偉い儒官の家系なんだよ」という話を聞かされていましたし、正月になると一斎直筆の掛け軸が床の間に飾られていました。
『言志四録』という名前も知っていましたが、その頃は読んでみようという気持ちはまったく起きませんでした。大学時代、一斎が塾頭を務めた昌平黌しょうへいこうの跡地にある湯島聖堂(文京区湯島)の近くのバス停を利用していたにもかかわらず、そこに寄ってみたいと思ったこともなかったのです。
私が佐藤一斎がどういう人物かを自覚したのは読売新聞社で第一線の記者として34年間働き続け、それを退いた後でした。一斎について学び、『言志四録』を熱心に読むようになったのも、そこからです。

疋田 そうでしたか。

深尾 読み始めたばかりの頃、「一燈いっとうげて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ。だ一燈を頼め」という『言志四録』ではよく知られた言葉が心に響きました。人生には山あり谷あり、いろいろなつらいこと悲しいことがあるけれども、信念を持って自分の信じた道を歩みなさいという教えだと私はこれを受け止めたのです。
読売新聞社に入社した昭和30年当時、女性社員はほとんど採用されませんでした。入社した翌日、社主の正力しょうりき松太郎さんから「うちは本当は女性は採らんのだよ。役に立たないからね」と言われて驚きました。 

しかし、新聞は女性も男性も読むものであって男性だけが新聞をつくるのはおかしいという思いがずっとあったものですから、女性たちの権利を社内でも新聞でも随分主張してきました。1963年、アメリカで女性解放運動が起こるや、その動きは世界中に広がり、私はそれを報道すべく、アメリカをはじめ世界各国を駆け歩く生活が続きました。
長い新聞記者生活を振り返ってみますと、私にとっての一燈とはペンによって日本社会の男女平等、男女共同参画を推し進めることにあったのではないかという思いを強くしています。

福岡女子大学名誉教授

疋田啓佑

ひきた・けいゆう

昭和12年中国東北部(旧満州)生まれ。35年九州大学文学部国文科卒。40年同大学院中国研究科修了。都城工業高等専門学校教授、二松學舎大学文学部教授、福岡女子大学文学部教授を歴任。定年退職後は久留米大学などで非常勤講師を務める。著書に『儒者』(致知出版社)『貞観政要を読む』『呻吟語』『池田草庵』『服部南郭』『言志四録に学ぶ(上下)』(いずれも明徳出版社)など。

知られざる『言志余録』を研究

疋田 私は血族関係にある深尾さんとは対照的で、一斎と出会うとは考えられないような環境で生きてきました。10歳の時に中国から引き揚げ、貧しい生活の中でついに結核をわずらってしまうのです。
その頃は学校にも行けず家で本ばかり読んでいました。改造社の『現代日本文学全集』や新潮社の『世界文学全集』が、母の実家に眠っていたのを取り寄せて読んだのです。その結果、大学では国文学科に入りましたが、近世文学を研究するには漢文が読めなくては駄目だと近世文学の大家・中村幸彦先生から言われ、大学院は中国学を専攻しました。
大学院を出て宮崎の都城みやこのじょう工業高等専門学校の教授をしていた頃、大学院時代の恩師・岡田武彦先生から「せっかく宮崎にいるなら地元出身の安井息軒そっけんの勉強をしたらどうか」と言われて原稿を書いたのが、儒学者に関心を抱くようになったきっかけです。

佐藤一斎との出会いと言えば、それよりずっと後、二松學舎がくしゃ大学で教鞭きょうべんっていた四十代の頃、一斎生誕220年を記念して『佐藤一斎全集』を刊行する企画が立てられましてね。監修者である岡田先生の下、弟子たちも執筆を担当するようになりました。私には『言志四録』の書誌に関する解説と余説が割り当てられたのですが、何しろ一斎の学問の深さは並外れていますから、1つひとつに関係のある余説を書くことは、大変骨の折れる仕事でした。この余説が縁で『言志四録』について雑誌に連載することになり、それを纏めて2017年に『言志四録に学ぶ』という本で刊行しました。一斎や日本の儒学についてこの時ほど深く勉強したことはありませんでした。
『言志四録』の全篇にわたって余説を書くに当たって『言志余録よろく』を紹介したのも忘れ難い思い出です。『言志四録』には『言志録』『言志後録こうろく』『言志晩録ばんろく』『言志耋録てつろく』の4つの他に『余録』というものがあるのです。

深尾 そうなのですか。お恥ずかしながら私は『余録』があることを知りませんでした。

疋田 このことはほとんどの方はご存じないと思います。一斎という人物は、朱子学を信奉すべき儒官でありながら当時幕府から禁じられていた陽明学に強い関心を寄せていました。しかし、それを言葉として『言志四録』に載せて出版するわけにはいかない。そこで差しさわりのある部分を削り、これを『言志余録』として残していくわけです。
一斎の門人・楠本碩水せきすいの書簡に、そのことを言及しているのを知り、その書が九州大学の崎門きもん文庫にあることを知ったので、その書について解説で言及し、全集に採録したのですが、そのことは私も『言志四録』の関係者として、一斎の紹介に少しは寄与したかと思っています。

深尾 それはぜひ全集を読まなくちゃ。
私は儒学の研究家ではありませんから、疋田先生のような専門的な読み解き方はできませんが。子孫としてこれまで約30年間、『言志四録』を愛読してきました。
最近気づいたのですが、一斎はこの本の中で「私はいつもあなたのそばにいるよ」というメッセージを伝えてくれているんです。これを知った時はとても驚きました。

深尾氏が人生のバイブルとして読み込んでいる『言志四録 座右版』

疋田 ほう、とても興味深い話ですね。

深尾 『言志録』212条にこう書かれています。

静夜独せいやひとり思うに、吾がは、一毛、一髪、一ぜん、一息、皆父母なり。一視、一聴、一寝、一食、皆父母なり。既に吾が軀の父母たるを知り、又我が子の吾が軀たるを知れば、すなわち推してこれのぼせば、そうこうも我に非ざること無きなり」

ここで一斎が言っているのは、人間とは1人でポンとこの世に誕生したのではなく、この体は父母からいただいたものである、それを知れば祖父母も曾祖父母も、高祖父母も自分の体であるということですね。よく知られている「身体髪膚しんたいはっぷ之を父母に受く」という言葉ととてもよく似ています。

疋田 『孝経こうきょう』の冒頭の一節ですね。

深尾 続けて、一斎はこう述べているんです。

ていして之をくだせば、そんそうげんも我に非ざること無きなり。聖人は九族を親しむ」

つまり孫も曾孫ひまごも玄孫も自分の体でないものではない。自分の体をおまえたちにあげているんだよ、と。九族とは、一斎を中心として上は高祖父母、下は玄孫までを指してのものですが、それだけの親族一人ひとりを心に思い起こしてくれているわけです。
私はもうすぐ86歳になりますけど、こうして病気1つせずに元気でいられるのは、88歳の天寿をまっとうした一斎の体をいただいているからなのかなと、最近つくづくそう感じます。

疋田 一斎といえば、一般の人は小泉元首相が紹介した「わかくして学べばすなわそうにして為す有り。壮にして学べば則ち老ゆとも衰えず、老いて学べば則ち死すとも朽ちず」という『言志晩録』の言葉を思い出されるでしょうが、一斎には数多くの名言があり、『言志四録』は名言の宝庫と言えます。

恵那市佐藤一斎言志四録普及特命大使、読売新聞社社友

深尾凱子

ふかお・ときこ

昭和8年東京都生まれ。東京大学文学部卒業後、読売新聞社入社。記者として活躍する一方、米国アイオワ大学大学院ジャーナリズム学科卒業。編集委員などを歴任。退社後平成元年から埼玉短期大学教授(国際コミュニケーション学科長)、4年に茨城県女性プラザ館長。ともに15年に離職。現在もジャーナリストの傍ら、いばらき大使、恵那市の佐藤一斎 言志四録 普及特命大使などを務める。