2026年2月号
特集
先達に学ぶ
対談
  • 志ネットワーク「青年塾」代表上甲 晃
  • 小林製薬会長大田嘉仁

松下幸之助と
稲盛和夫
二人の〝経営の神様〟の共通項

松下幸之助と稲盛和夫。共に自ら立ち上げた会社を、一代で世界的な優良企業へと育て上げた名経営者である。2人はなぜ破格の業績を収めることができたのか。そして、いまなお多くの人々に人生の指針を与え続けている所以とは。各々 の〝経営の神様〟に長年仕えてきた上甲晃氏と大田嘉仁氏のお話を通じて、そこに共通するものを探った。
【写真/松下幸之助=時事、稲盛和夫=菅野勝男】

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    志ネットワーク「青年塾」代表

    上甲 晃

    じょうこう・あきら

    昭和16年大阪市生まれ。40年京都大学教育学部卒業、松下電器産業(現・パナソニック)入社。56年松下政経塾に出向。理事・塾頭、常務理事・副塾長を歴任。平成8年松下電器産業を退職、志ネットワーク社を設立。翌年青年塾を創設。著書に『志のみ持参』『続・志のみ持参』『志を教える』『人生の合い言葉』『松下幸之助の教訓』(いずれも致知出版社)など。

    小林製薬会長

    大田嘉仁

    おおた・よしひと

    昭和29年鹿児島県生まれ。53年立命館大学卒業、京セラ入社。平成2年米国ジョージ・ワシントン大学ビジネススクール修了(MBA取得)。秘書室長、取締役執行役員常務などを経て、22年日本航空会長補佐・専務執行役員を兼務。27年京セラコミュニケーションシステム会長。令和元年MTG会長。7年小林製薬会長。著書に『JALの奇跡』『運命をひらく生き方ノート』(共に致知出版社)など。

    「まず思わなければならないのだ!」

    大田 きょうはよろしくお願いします。『致知』で上甲さんと対談するのは4年ぶりですので、とても楽しみにしていました。

    上甲 あれからもう4年ですか。あっと言う間ですね(笑)。
    今回は、僕が仕えてきた松下幸之助と、大田さんが支えてこられた稲盛和夫さんの共通項を考えてみようということで、事前に京セラさんの本社にある「稲盛ライブラリー」に寄せていただいて、稲盛さんのことを勉強してきました。
    そこで改めて実感したのですが、松下幸之助と稲盛さんは、実によく似ていますね。単に商売がうまいとか、経営がうまいとか、そういう次元を超えた宇宙観や人間観の部分でとても似通っている。ここは普通の経営者にはあまり見受けられないところです。2人とも経営の神様とうたわれましたが、僕はむしろ生き方の神様という感じがしています。

    大田 稲盛さんは幸之助さんを師と仰いでずっと勉強してきましたから、似てくるわけですよね。幸之助さんから学び、追いかけ続けたのが稲盛さんでした。
    象徴的なのが、稲盛さんが幸之助さんの講演会で、ダム式経営の話を聞いた時のエピソードです。
    幸之助さんはそこで、河川の水をダムで貯めるように、資金や人材、設備など、あらゆる経営資源に余裕を持って経営するダム式経営の重要性を説かれました。すると参加者から「ダム式経営の重要性は分かりましたが、どうすればダムができるのでしょうか?」という質問が出た。幸之助さんがしばらく考えて、「一つ確かなことは、まずダム式経営をしようと思うことですな」と答えると、即効性のあるノウハウを期待していた参加者からは失笑がれました。
    しかし稲盛さんだけは、その幸之助さんの言葉に電流が走るような衝撃を受けたといいます。
    「そうか、まず思わなければならないのだ!」と。

    部下を信じるのが上司の仕事

    大田 稲盛さんがそこまで衝撃を受けたのは、幸之助さんと同じように小さな会社からスタートして、多くの試練に直面しながら懸命に事業に打ち込んできたからだと思うんです。サラリーマン経営者では、その時の幸之助さんの話はピンとこないのではないでしょうか。

    上甲 2人は同じような体験をしてきているから、波長が合ったのでしょうね。
    松下幸之助が松下電気器具製作所(後の松下電器産業/現・パナソニック)を創業したのは1918(大正7)年、23歳の時でした。旧家の生まれでしたが、父親が米相場で失敗して一家が破産したために9歳から丁稚奉公でっちぼうこうに入りました。そして、その頃大阪の街で走り始めた市電を見て、これからは電気の時代だと確信するんですね。そこから大阪電灯(現・関西電力)を経て独立し、翌年に会社を立ち上げました。借家に作業場を設けて、妻と義弟とたった3人からのスタートですよ。

    大田 稲盛さんが京都セラミック(現・京セラ)を創業したのは、幸之助さんが会社を起こした41年後の1959(昭和34)年、27歳の時でした。
    創業前からいくつも挫折を経験していて、小学校の時は成績がよく、名門の旧制一中に間違いなく合格すると言われていたのに2回も失敗し、しかも結核に罹患りかんしてしまう。就職もうまくいかず、何とか入社した京都のしょうふう工業は、労働争議が繰り返されている赤字会社でした。厳しい環境の中でも稲盛さんはファインセラミックスの開発に成功するんですが、上司から担当を外され、独立して会社を立ち上げました。稲盛さんについてきた仲間と七人で、血判状を交わしてのスタート、それが京セラです。
    松下電器もそうだったと思いますが、京セラの創業当初は零細企業ですから、優秀な人はもちろん来ない。いまいる社員を育てるしかないわけです。「誰にも無限の可能性がある」というのが稲盛さんの信念ですが、厳しい現実の中でそう信じざるを得なかったんだと思うんです。

    上甲 サラリーマン経営者とは、社員に対する見方が全然違うわけですね。

    大田 ですから稲盛さんは、部下から提案が上がってきた時には、「よし、やってみろ」と言うしかなかった。「おまえにできるはずはない」と言った瞬間に、京セラは機能しなくなるんだと。
    私は、稲盛さんが過去に失敗した人の稟議書りんぎしょもすぐに可決するので、心配になって「この人はこんな失敗をしていますよ。そんなに簡単に可決していいのですか?」と聞いたことがあります。すると稲盛さんは、「俺をだますのは簡単だ。だけど、騙されても騙されても部下を信じるしかないんだ」と。私は二の句が継げませんでした。
    そういうところから育まれた人間尊重の精神が、晩年のJAL再建にもつながるんです。経営破綻はたんをした当時のJALでは、上司が部下を批判するのが普通でした。そこで再建に臨んだ稲盛さんは、「部下を信じるのが上司の仕事だ」と、繰り返し説いたんです。

    上甲 松下電器の幹部も、部下の悪口を言ったら松下幸之助からとんでもなく怒られたそうです。誰もがダイヤモンドの原石なんだと。