追悼

追悼・森 迪彦氏

哲学者・森 信三師のご子息で「実践人の家」常務理事の森 迪彦みちひこ先生が2月15日、逝去されました。その約2週間前、本誌4月号の鼎談「森 信三が目指した世界」で取材をさせていただいたばかりでした。享年80。
『致知』に初めて登場されたのは2005年4月号「致知随想」。その後、3度にわたり特集の鼎談にて貴重なお話を賜りました。本誌の精神的源流ともなっている森 信三師の三男として、ご尊父が遺した思想哲学の伝承活動に、長年にわたり尽力されてきました。
謹んで哀悼の意を表し、ここに森 迪彦先生とご縁の深かった方々のお言葉を紹介いたします。

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    森 信三先生没後30年 輝きを命懸けにて語りし君よ──畏友・森 迪彦様逝去の悲報を受けて──

    「実践の家」参与

    浅井周英

    昨年(2021年)11月に、致知出版社の藤尾秀昭社長様から、「来年は森 信三先生没後30年に当たるので、『致知』4月号で特集を組みたい。そこで浅井さんと対談する相手の人選をしておいてください」との電話がありました。

    藤尾社長様は、森 迪彦様と私の対談を考えておられたようですが、迪彦様の体調がすぐれないので、上京しての対談は無理だろうと判断されたようです。

    年が明けて、私と対談をする人は、実践人の家の兼氏敏幸理事長様となり、2月3日、致知出版社で行うことに決定しました。

    ちょうどオミクロン株感染が急拡大してきたので、対談場所も広い部屋でとの配慮をしていただき、ホテル・ニューオータニに変更されました。

    すると会場に、兼氏様に付き添われた森迪彦様が、車椅子で入ってこられました。迪彦様から、どうしても参加したいとの申し出に、致知出版社の担当者が、「無理をなさらないように」と3度慰留されましたが、迪彦様の決意は変わりませんでした。

    主治医に相談すれば「絶対駄目だ」と言われるので、今回は黙っての上京でした。

    今から思えば、迪彦様は、自分の命の最後の力を振り絞ってでも、父信三先生没後30年への思いを語りたかったのだろうと思いますと、私の心の中から込み上げてくるものがあります……。

    対談が3人ということで、いわゆる鼎談となりました。

    迪彦様は、森先生が建国大学へ赴任中、昭和16年に新京で三男として誕生しました。

    昭和20年、日本が敗戦を迎えた時に、5歳で母親と次兄と共に、辛うじて帰国出来ました。

    終戦後、森先生が、ガリガリに痩せて帰国された時の印象を語られました。

    迪彦様は、平成16年に会社を定年退職後、実践人の家の事務局長・常務理事を務められ、まさに縁の下の力持ち的働きをされたのです。

    今回、病身の中を最後の力を振り絞って、父信三先生の「山又山」の苦難を乗り越えた人生を、命懸けで語られたのでした。

    魂の故郷に還られた迪彦様を父信三先生は「よくがんばってくれた。よく還ってきた」と抱きしめてくださっていることでしょう。

    目立たないが、人生の大道を歩いて生き方の見本を教えて下さったお方

    ハガキ道伝道者

    坂田道信

    森 迪彦先生が人生を見事に卒業なさったと伝え聞きまして、短いあいだでしたが、お付き合いして下さった数々の思い出がよみがえって、改めて人間の生き方の大道を教えて頂いた思いがしています。

    晩年の、全一学者、森 信三先生を自宅に引き取り、看取られていましたが、私達夫婦は度々、お見舞いにいかせて頂きました。

    森先生は、ことのほか喜んで下さいました。

    〝人生二度なし〟森 信三先生はやがて天に召されましたが、愛知県半田市のお墓も、尼崎市のお墓も狭く、色々と不都合も多くあることが分かり、名古屋市内の風光明媚、朝から夕方まで、お日さまがあたる新しい土地に、供養塔が建立されました。

    (森 信三先生供養塔住所・名古屋市緑区鳴海町笹塚17 みどりが丘墓地公園375-5-6 ブロック3列5-6番)

    これは、誰にも出来ない事で、特筆すべきことです。

    私達は途方もない多くの先祖の人生を引継ぎ、具体的に歩いている一面があると言え、使命があると教えられました。

    森 迪彦先生は、晩年畑違いの、実践人の常務理事に就任されていて、人知れないご苦労もあったと思えます。

    「複写ハガキ」を書いて下さっていて、広島ハガキ祭りにも参加して下さっていました。

    ゆっくりとお話しがしたいことでしたが、今ではかないませんが、目立たないが随分と示唆に富む大道、まともな生き方をして見せて下さいまして、ありがとうございます。

    森 迪彦さん逝く

    「実践人の家」理事長

    兼氏敏幸

    森 迪彦さんは、実践人の家常務理事として、20年以上実践人の家の屋台骨を支えてこられました。ご尊父の森 信三先生の思想を少しでも広めようと日々努力されておられました。

    そしてよく口にされたのが、森 信三先生が言われた「日本の立ち直るのは、2025年からでしょう。そしてそれは、二宮尊徳先生のお教えに準拠せねばならぬでしょう。そして世界が、日本の立ち直りを認め出すのは、2050年からでしょう」という寺田一清先生の随聞記からの引用でした。そのためには、2025年を見据えて、東京で全国研修会をしなければならないと言われていました。私はそのような迪彦さんの強い希望で、お亡くなりになられる12日前に一緒に東京に行ったのでした。

    そして致知出版社の鼎談をして、行徳哲男先生とも東京大会の打ち合わせをすることができました。最初神戸駅でお会いして少しお疲れのご様子でしたので、「今回の東京行は見合わせましょうか」と言いましたが、「是非今回は東京へ行きたい」と強い口調で言われました。まさに死をお覚悟の上での行動でした。今はこの迪彦さんのご遺志を継いで、時代が要請している森 信三先生の思想を広めていくことを決意しているところです。

    今頃は、天国でお父様の森 信三先生と楽しく語らっておられることでしょう。それというのも森先生は三男の迪彦さんがかわいくて仕方がなかったようなのです。森 信三先生が満州から帰国後に書かれた「国と共に歩むもの」の中に、「遠くの方で三男がこの間買ってやった玩具のピストルを射っている音が聞こえる」「筆をおけば、……下で8つになる三男の声がする」など、8つになる迪彦さんの事がよく出てくるのです。

    ご生前、実践人の家を支えてこられた迪彦さんの労をねぎらって、森 信三先生も慈愛のお言葉をかけられておられると思います。ご冥福をお祈りいたします。

    生き生きと追想される森 迪彦先生との思い出

    日本BE研究所所長

    行徳哲男

    森 迪彦先生のご逝去に、お悔みを申し上げることも、ご冥福を祈るつもりも全くありません。迪彦先生は、小生の余韻と余情の中に鮮やかに、鮮やかに生きておられます。死は生命の終焉ではない。

    迪彦先生からは、森 信三先生97歳までの長寿の秘訣は独居自炊と行脚であると教わりました。爾来自らの責任で生きる独居自炊を続けることは中々の苦行と学び、迪彦先生とともに北海道の網走から宮崎の高千穂、高鍋に至るまで講演行脚した思い出が生き生きと追想されます。

    ある土砂降りの日、石川の西田幾多郎記念哲学館に立ち寄り、陳列物を見ていた迪彦先生が突然座り込んでしまった。「何をご覧になりましたか」と小生が問うと、「象牙の塔と実践の差ですかね。父がなぜ西田氏と離別したのか、息子としてその理由を知りたかったのです」と言葉にされたことが印象に強く残っています。

    迪彦さん、ご逝去の直前に『致知』の鼎談の席でお逢いできたことは本当に有難いことでした。いま、悲壮感は全くありません。只々(ただ ただ)往ってらっしゃいとお送りしたい。往く以上は時にお帰りいただき、勇気を与えてください。

    拙宅には迪彦先生から頂戴した信三先生の書の掛軸があります。

    この言葉を迪彦先生からの形見の言葉とさせていただきます。

    年々死を覚悟してこそはじめて真の生となる

    感謝合掌

    森 迪彦先生を偲んで

    臨済宗円覚寺派管長

    横田南嶺

    私は毎年、寺田一清先生が始められた人間学塾中之島の講師を務めさせてもらっていて、その会にはいつも森迪彦先生もお越しくださっていました。毎回お目にかかることを楽しみにしていました。

    今年(2022年)の2月にも出講したのですが、森先生のお姿が見えないので、コロナの影響かと思っていました。

    森 迪彦先生がお亡くなりになったことを、藤尾社長からうかがって驚きました。そして『致知』4月号に掲載された森先生の鼎談を拝読し、御尊父森 信三先生の教えを伝えんとなさる、その熱意を最後まで燃やし続けられたことに改めて敬服しました。

    また、円覚寺にも何度もお越しいただいています。いろいろお話しさせていただいても、物静かでいらっしゃりながらも、内に森 信三先生に対する熱い思いを抱かれていることを感じていました。

    有り難いことに、森 迪彦先生から森 信三先生の直筆を頂戴しています。森先生の墨痕淋漓たる「山又山」の一軸です。この道は、どこまで行っても終わりがない、山を越えても又山有りの連続だと、森 信三先生の教えを、迪彦先生を通じて頂戴した思いであります。

    森 信三先生没後30年の年に、その生を全うされた迪彦先生に哀悼の意を捧げ、謹んでご冥福をお祈りします。

    父は子の天なり森 信三先生の顕彰活動に生涯を捧げ尽くして

    致知出版社代表取締役社長

    藤尾秀昭

    本年、森 信三先生没後30年の節目を迎え、ぜひとも『致知』にて先生を偲ぶ対談を組みたいと考えていました。

    折しも『致知』4月号で「山上 山また山」という特集テーマを企画しており、その言葉通りの人生を歩まれた森先生について、ぜひともご子息の迪彦氏に、高弟の浅井周英先生と語り合っていただきたい旨ご相談したところ、大変ありがたい話だが、あいにく喉(のど)にがんが見つかり、治療中のため辞退したいとのこと。代わりに「実践人の家」現理事長の兼氏敏幸氏をご推薦いただき、2月3日に東京で対談を執り行う運びとなりました。

    ところが直前に迪彦氏より、「やはり自分も出席させていただきたい」との連絡が入り、急遽ご本人も含めたお三方の鼎談に変更しました。

    あいにく、私は当日体調を崩して参加できませんでしたが、担当編集者の報告を受け驚いたのは、迪彦氏は車椅子で会場へお越しになったとのこと。後日、兼氏理事長から伺った話では、迪彦氏は「この機会に、どうしても話しておきたいことがある」と、上京することを医者にも家族にも告げずに参加されたそうです。その後僅か10日余で息を引き取られたことを考えると、お覚悟の上でのご上京だったのかもしれません。

    鼎談では、普段は寡黙な迪彦氏が、いつにも増して森先生のことを熱く語られた様子が誌面からひしひしと伝わってきます。

    「父は子の天なり」という古語があります。迪彦氏にとり、森先生はまさにこの言葉通りに天のような存在であったのでしょう。森先生を心から尊敬され、その顕彰にひたむきに尽力されたご生涯だったと思います。

    生前のご厚情に感謝申し上げると共に、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。