2018年6月号
特集
父と子
鼎談
  • 森 信三氏 ご子息森 迪彦
  • 平澤 興氏 ご子息平澤 裕
  • 坂村真民氏 ご息女西澤真美子

父が照らした光

真に生きる力となる哲学を提唱し、教育活動に心血を注いだ国民教育の師父・森 信三師。世界的な脳神経解剖学者として、研究の道一筋に生きた京都大学第16代総長・平澤 興師。生涯に1万篇以上もの詩を創作し、多くの人の心に光を灯してきた仏教詩人・坂村真民師。「人間学の達人」と呼ぶに相応しい三師を父に持つ森 迪彦氏、平澤 裕氏、西澤真美子さんに、それぞれの父の歩いた道、心に残る父の言葉などを語り合っていただいた。

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    三師の交わり

     『現代の覚者かくしゃたち』(致知出版社)には、私の父・森信三しんぞうを含めて坂村真民しんみん先生や平澤こう先生ら、7名の方のインタビューが収録されています。巻末は森信三と平澤先生の対談で締めくくられていますね。

    平澤 ええ、2人が出逢ったのはこれが最初で最後。その意味では奇跡のような対談です。

     取材が行われたのは昭和61年ですが、当時私は父と一緒に住んでおりました。あの日、父は朝からえらい緊張してましてね。何があるんやと聞いたら、実はこれから平澤先生との対談に出掛けるので、背広を着るんやって。

    西澤 対談の中で、森先生が私の父・坂村真民の詩についてお話ししてくださっていますけど、ここに3人の接点がありますね。

     私が大学に入学した頃、父が家に帰ってくるや、「四国に偉い詩人がいる」と興奮して1時間くらい真民先生の話をしたことがありました。それ以来、父はいろんなところで真民先生の詩を紹介していましたよ。

    平澤 致知出版社の藤尾さんから聞いた話では、『現代の覚者たち』が出版された時、私の父・平澤興は一晩のうちに読んでものすごく感動し、真民先生と対談したいと言ったそうです。

    西澤 ああ、そうなんですか。

    平澤 ところが、その翌年、平成元年6月17日に父は88歳で他界しましたので、念願の対面を果たすことはかないませんでした。

    森 信三氏 ご子息

    森 迪彦

    もり・みちひこ

    昭和16年満洲生まれ。20年引き揚げ。父・森信三は翌年帰国して、22年月刊誌『開顕』、31年『実践人』を発刊、家業として手伝う。42年大阪府立大学卒業後、大阪の会社に勤務。平成16年定年退職後、「実践人の家」事務局長、常務理事を務める。

    9人の子供を育てた

     平澤先生が亡くなられてもう30年近く経つんですね。

    平澤 その日は京都のみやこホテルで行われていたロータリークラブの会合にいつもどおり出席していたんですよ。だから、まさか亡くなるとは思わなかったんですけど、夜に容態が悪化して病院に運ばれたんです。まあ、いろんな病気をわずらってましたからね。

     ゆたかさんは何年生まれですか? 

    平澤 昭和17年、四男五女の9人きょうだいの末っ子として生まれました。父が41歳の時です。

    西澤 まあ、きょうだいが9人も。

    平澤 長兄・はじめは92歳のいまも健在で金沢に住んでいまして、私とは17歳も離れています。

    西澤 それにしても9人の子供を産み育てたお母様はすごいですね。

    平澤 そうですね。子育ての苦労も多かったのか、母は69歳で亡くなりました。晩年は糖尿病が原因で目が見えなくなって、家に閉じこもっていたので、つらかっただろうと思います。

     平澤先生は奥様に先立たれた後は独居生活を?

    平澤 いや、母が他界した3年後、昭和50年に私が32歳で結婚しましてね。それから父が亡くなるまでの14年間、一緒に暮らしました。なので、私がきょうだいの中で最も長く身近に接し、薫陶くんとうを受けてきたのかもしれません。
    そういう意味では、父が遺したものを後世に継承していかなければならないと思っています。

    平澤 興氏 ご子息

    平澤 裕

    ひらさわ・ゆたか

    昭和17年新潟県生まれ。4男5女の9人きょうだいの4男末子。4歳の時、父・平澤 興の京都大学赴任に伴い、家族と共に京都へ移住する。40年同志社大学卒業後、東京の会社に勤務。アルパインツアーサービス取締役、京都国際文化専門学校理事を経て、現在に至る。