2019年9月号
特集
読書尚友
  • 文芸評論家富岡幸一郎

内村鑑三の言葉の力

『代表的日本人』などの著作で知られるキリスト者・内村鑑三。文芸評論家の富岡幸一郎氏は20代で初めてその全集を読んだ時、文章の力強さに圧倒されたという。長年、内村を研究テーマとして歩む中で富岡氏は何を学び、感じ取っていったのか。内村の生涯を辿りつつ、お話しいただいた。

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言葉の力はどこから生まれたのか

私の文芸評論家としてのデビューは1979年、群像新人文学賞評論部門で優秀作を受賞した22歳の時でした。この時の小説部門の当選作が村上春樹さんの『風の歌を聴け』。それまでの戦後派文学から新しい文学の流れが生まれ始めた時期でもありました。

その後、出版社から近代日本の知識人をテーマに評論を依頼され、まず頭に浮かんだのが作家の正宗白鳥まさむねはくちょうでした。しかし、正宗は他に研究者がいて、正宗や志賀直哉、有島武郎たけお、太宰治などの文学者や日本文化に多大な影響を与えたキリスト者・内村鑑三かんぞうを取り上げることにしました。内村の全集を2年近くかけて読み、『内村鑑三─―偉大なる罪人の生涯』という小品を上梓じょうししたのですが、これが内村との出会いでした。

内村鑑三

うちむら・かんぞう

文久元(1861)年~昭和5(1930)年。キリスト教無教会主義の創始者。札幌農学校卒。雑誌『聖書之研究』を創刊し、講演・著述による伝道で当時の青年層に大きな感化を与えた。主著に『余は如何にして基督信徒となりし乎』『代表的日本人』『基督信徒の慰』『求安録』など。─国立国会図書館「近代日本人の肖像」

全集を読む中で痛感したのは、キリスト教に関する私自身の無知でした。ロシアのドストエフスキーなど多くの文学作品を通してキリスト教に触れてきたつもりではいましたが、考えてみたら『聖書』を読み込んだり、日曜日に教会に行って説教を聞くという経験はありません。内村の思想の中核となる「再臨さいりん信仰」も初めて耳にする言葉でした。

『新約聖書』を読むと、イエス・キリストは十字架の死の3日後に復活し、40日間弟子たちと共に行動した後に天に昇られます。この時、残された弟子たちに御使みつかいが次のように伝えます。
なんじらを離れて天にげられたまひしのイエスは、汝らが天に昇りゆくを見たごとまたきたり給はん」(「使徒行伝しとぎょうでん」)
イエスは私たちのような肉体を持って、救世主として再びこの地上に来臨らいりんされるというのです。これが再臨信仰です。しかし、西洋近代の啓蒙けいもう主義、人間中心主義の中で、この考え方はあまりにも非科学的、荒唐無稽こうとうむけいだとして教会ですらあまり語られなくなりました。誰も関心を寄せなくなった再臨信仰に、再び光を当てたのが内村だったのです。それは詰まるところ、『聖書』そのものの教え、信仰に立ち返ろうとする動きでもありました。

20世紀に入り、ヨーロッパではキリスト教国による第一次世界大戦が勃発。近代科学が人類に新しい希望と楽園をもたらすと信じていた人々にとって、これらが巨大な殺戮さつりく兵器を生み出していったことは大変な衝撃でした。そんな中、戦争に反対するどころか、賛同するキリスト教会すら現れてきました。

若い頃、アメリカ留学を通してキリスト教文明に接していた内村が、一種の崩壊現象にある欧米のキリスト教界にかんがみ、『聖書』やキリスト教の教えにいま一度立ち返らなくてはいけないと危機感を抱いたのは、当然のことだったと思われます。

ちょうど同時期、スイスの神学者カール・バルトもまた『ロマ書』という再臨信仰をテーマとした著書をものし、後にヨーロッパの思想界、神学界に大きな衝撃を与えました。内村、バルトが時を同じくして『聖書』の意味を問い直したのは、宗教界の一つの節目となる出来事でもありました。

内村の論文や著作のほとんどは文語文や英文で書かれており、その特徴は極めて明確な文法構造にあります。私は多くの文学者の文章を読んできましたが、それとは全く次元の異なる力強さに満ちているのです。それはおそらく内村を突き動かしている信仰の力によるものなのでしょう。

後にバルトがドイツ語で書いた『ロマ書』も読んでみましたが、やはり独特な強い文体であり、彼の文章が時代を大きく動かした理由が理解できるようでした。

2人は『聖書』をヒューマニズム的な視点で読むのではなく、神の超越的な言葉としての『聖書』そのものと向き合い、ぶつかり合いました。その言葉との衝突の中で新たなエネルギーが生まれ、それが強い文体となって読者の心を揺さぶったのです。私が内村から最初に学んだのは、まさにこの言葉の持つ力でした。

文芸評論家

富岡幸一郎

とみおか・こういちろう

昭和32年東京都生まれ。中央大学文学部在学中に書いた文芸評論で第22回群像新人文学賞(評論部門)優秀作を受賞。以来、文芸評論家として活躍。現在関東学院大学教授、鎌倉文学館館長。著書に『使徒的人間カール・バルト』(講談社文芸文庫)『内村鑑三』(中公文庫)『川端康成 魔界の文学』(岩波書店)『虚妄の「戦後」』(論創社)など。近刊に『生命と直観―よみがえる今西錦司』(アーツアンドクラフツ)他多数。