2019年9月号
特集
読書尚友
対談
  • (左)ことほぎ代表白駒妃登美
  • (右)九州大学名誉教授井口 潔

読書こそが人間教育の原点

井口 潔氏、98歳。井口氏が1冊の本を通して人間教育の重要性に目覚めたのは大学退官を5年後に控えた時だった。以来、今日に至るまで生物学的な見地から人間教育のあり方を研究し続けてきた。素読を中心とする日本の伝統教育がいかに理に適ったものなのか、また読書は人格形成にどのような影響を与えるのか。これまでの研究内容を交えつつ、親交のある「博多の歴女」こと白駒妃登美さんとともに読書について語り合っていただいた。

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死を目前に生きる人たちは明るい

白駒 尊敬する井口いのくち先生と、このように対談の機会をいただけるなんてとても光栄です。きょうはよろしくお願いいたします。

井口 こちらこそ。98歳ですから、どこまで十分なお話ができるかどうか……。

白駒 そんなふうにおっしゃいますが、先生はいまも地元・福岡や京都に毎月定例の講座をお持ちで、年に数回は宮崎や沖縄、東京などでも講演をなさっていますよね。学校の先生たちに交じって私も受講生として学ばせていただいたことがありますが、教えられることがとても多く、また深いのです。
きょうのテーマ「読書尚友しょうゆう」についても、先生は生物学的な視点から特に幼少期の教育や読書のあり方について明確なお考えをお持ちでいらっしゃいますので、そのあたりを詳しくお聞きできればと思っています。

井口 読書について語る前に、医学者の私がなぜ人間教育について深く考えるようになったのか。そのあたりのことを少しお話しさせていただけたらと思います。

白駒 ぜひお願いします。

井口 私は大正10年の生まれです。昭和3年、小学校1年の時に張作霖ちょうさくりん爆殺事件が起き、その3年後が満洲事変。それから五・一五事件、二・二六事件と続いて、旧制福岡高校3年の昭和16年に大東亜戦争が始まりました。このように私の少年期から青年期にかけては徹頭徹尾、戦争一色の世の中でした。
17年に九州大学医学部に入学したわけですが、医学部というのは倍率が高くて試験が難しいでしょう? ところが私が入った年は120人の定員に対して、超過はわずか8人。なぜかというと、軍医は戦地に派遣されて危ないというので、皆工学部に行ったんです。

白駒 多くの学生が兵器をつくる場所は安全だと考えたのですね。それで医学部志願者は極端に減ってしまった。

井口 しかし、私は自分が危ないなどということは少しも考えませんでしたね。4年生の時には沖縄が陥落し、日本がどうなるか分からないという状況で神奈川県の相模原さがみはらの陸軍軍医学校教育隊に行き、そこで全国から集まった1,500人の仲間と軍医になる訓練を受けました。6月には軍医の見習士官として福岡に戻り、福岡大空襲の時にはすぐに出動して任務に当たったんです。

白駒 以前、そのことを先生から伺った時、とても印象的だったのが、相模原に向かう列車の中で見た富士山が本当に美しくてまぶしかったというお話です。死が迫ってくる感覚が、その美しさをより際立たせたのでしょうか。

::井口 久留米から夜行の特急列車に乗って朝、目覚めるとちょうど静岡県でした。すぐ間近で見た富士山が実に大きくて、空には雲一つない。「この日本のために死ねるなら本望だ」と思いましたね。

白駒 戦争末期で日本中の都市が空爆されてレールも破壊されているのに、驚くことに日本人はそれをすぐに復旧したために、列車を乗り継いで相模原に行くことができた。焼け野原を見た時に希望しか湧かなかった。そんなこともお話しくださいましたね。
「先生、その希望ってどういう意味ですか」と私がお尋ねしたら「何があっても、この美しい国を守るんだという確固たる思いがあった。そのためにやるべきことは分かっている。それを希望と言うんだよ」と。そう言われてみると、希望の希は「まれ」ですよね。絶望のふちかすかな光を見つけるのが希望の本当の意味なのかと心から感動したことを、昨日のことのように覚えています。

井口 戦争中はさぞかし落ち着かない生活だったろうと多くの人が思うでしょうが、逆なんですね。学生たちは講義があろうとなかろうと、仲のいい者が下宿に集まってジャーナルの読み合わせをしていました。私も「自分にできることは何だろう」と試薬の研究に没頭していました。戦死するならそれも運命、死ぬ瞬間までよく生きようと、皆そう思っていました。だから朗らかで明るいです。ある意味、人間学を学ぶ上では申し分のない環境だったんです。

白駒 井口先生もそうですけど、私は大正世代の方って根底に明るさ、生命力のようなものがあるように感じています。

井口 それは大正ロマンの影響でしょうね。日露戦争の勝利で浮き足立っていた日本人に、当時のエリートたちは「有頂天になっちゃいかん」と厳しい目を向けていた。昭和期に入って軍部が暴走するまで日本人はとても健康でした。

九州大学名誉教授

井口 潔

いのくち・きよし

大正10年福岡県生まれ。昭和22年九州大学医学部卒業。38年九州大学教授。60年九州大学名誉教授。同年佐賀県立病院好生館館長。のち名誉館長。大学定年後は日本学術振興会井口記念人間科学振興基金において生物学的教育論を展開してNPO法人「ヒトの教育の会」を設立、理事長を務める。著書に『人間力を高める脳の育て方・鍛え方』(扶桑社)など。

人生の転機となった 2冊の書物

白駒 井口先生が人間教育に目覚める瞬間が訪れたのは、その後のことでしたよね。

井口 ご存じのように日本は戦後、アメリカの占領政策を経て昭和27年に独立しました。ところが、占領期は仕方がなかったとしても、アメリカから押しつけられた教育に問題があればきちんと正すべきなのに、日本はまったくそれをしなかった。それどころか、江戸時代から続く古典の素読など伝統的な教育を捨て去ってしまったんです。日本人が人間として不可欠な「自己抑制の機能」を失い始めたのはそこからですよ。
アメリカ流の教育はデューイに代表されます。彼は進歩主義教育運動を主導した教育学者で、要するに管理教育はやめて教師と生徒は友達のような関係になる、そのほうが子供たちの人間性は伸びる、という今日まで続く子供中心主義の理論的根拠を考え出したんです。
ところが、70年代になると、当のアメリカで教育は荒廃し始め、その荒廃の波は日本にもやってきます。その頃の日本は管理教育をうたいつつも、アメリカで破綻はたんしたはずの進歩的な教育法を一つの考えとして認める、という姿勢でした。当然、日本固有の自己抑制の教育ということについては何の検討もされないまま、置いてけぼりにされてしまったわけです。言い換えれば、本当の人間教育ということを考えてはこなかった。
その結果として、自己抑制力が脆弱ぜいじゃくな「すぐにキレる子」や未熟な大人が増え、近年、耳を疑うような青少年の反社会的行為が増えてきたことは、申すまでもないでしょう。

白駒 そこには、新しい考え方が常に進歩的であるという人間のおごりのようなものが感じられます。先人たちへの敬意さえ失ってしまったのかもしれません。

井口 明治政府は江戸期の教育を受け継いで「教育勅語ちょくご」を発布しました。しかし、終戦後は人間教育を研究する人が誰もいなくなってしまった。方法論を言う人はたくさんいても、教育の理念そのものは考えたことがない。いまの文部科学省でそのことを考えている人はおそらく皆無でしょう。

白駒 先生は「教育基本法」に「人間教育」という言葉が入っていないことがおかしいと、いつもおっしゃっていますね。

井口 「人間教育」という言葉はもはや死語です。私は大学で医学生を相手にしながら、人間教育をおざなりにしてきた戦後教育に対してずっと疑問を抱いていたんですが、大学を定年で退官する5年ほど前、ノーベル医学生理学賞受賞者のアレキシス・カレルの『人間、その未知なるもの』『人間の考察』を読んで、それは大きな衝撃を受けました。
私が読んだのは致知出版社と関係の深い渡部昇一氏の名訳になるもので、長文の「訳者のことば」は読者にとって極めて有益でした。
カレルは熱心なクリスチャンですけれども、人間が長く繁栄を続けるには3つの原則があると言っています。1つ目が「個体の保存」、2つ目は「種の繁殖」、3つ目は「精神の発達」です。
このうち「精神の発達」についてカレルは「創造主が予定したように人間の精神を発達させるべきなのに、それを無視して恣意的しいてきに発達させようとするのは大変な誤りである」と言っています。その上で「これはルネッサンスを受け継いだ人間が、測定できるもの(知性)を価値ありとし、測定できないもの(感性)を軽視したことによるもので、この考えを改めなければ、人間は早晩滅亡するだろう」とも警告しました。デューイの考えを恣意的、単なる思いつきだと批判しているわけです。

白駒 渡部先生が訳されたカレルの著書との出合いで井口先生は人間の心の発達について研究されるようになり、こうして『致知』で対談という流れになった。1冊の本との出合いで人生は変わるんですね。
60歳を前に、私の心に火がつきました。もう1冊、その後に読んだ数学者・岡潔おかきよし先生の『春宵十話しゅんしょうじゅうわ』の冒頭にある「人間を生理学的にみたらどんなものか。これがすべての学問の中心になるべきではないか」という一文も大いに刺激となりました。「読書尚友」というテーマに絡めれば、カレルと岡先生が、その著書を通して私を目覚めさせてくれたといってもいいでしょう。

ことほぎ代表

白駒妃登美

しらこま・ひとみ

昭和39年埼玉県生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、大手航空会社の国際線客室乗務員として7年半勤務。日本の素晴らしい歴史や文化を国内外に発信する目的で平成24年株式会社ことほぎを設立。「博多の歴女」として年間200回に及ぶ講演や歴史講座を行う。著書に『心に光を灯す日本の偉人の物語』(致知出版社)など多数。