2023年1月号
特集
げずばやまじ
対談
  • 「家族会」代表横田拓也
  • 「救う会」会長西岡 力

何としても取り戻す
拉致問題解決に懸ける思い

当時中学1年生だった横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて45年の歳月が経過した。今日まで拉致被害者救出運動の先頭に立ってきたのが被害者の家族でつくる「家族会」とそれを支援する「救う会」である。政府間の交渉は依然膠着状態にあるが、「家族会」の横田拓也代表、「救う会」の西岡 力会長は共にいまも解決に向けて全力で走り続けている。「高齢となった親世代が健全なうちに何としても」という一念に、一刻も早い解決を祈らずにはおれない。

この記事は約23分でお読みいただけます

日朝首脳会談から20年に思う

横田 10月23日の「全拉致らち被害者の即時一括帰国を求める国民大集会」は、(北朝鮮が日本人の拉致を認め拉致被害者5名が帰国した)2002年の日朝首脳会談から20年ということもあって人々の大きな関心を集めましたね。

西岡 ええ。岸田文雄総理が元々入っていた外遊先のオーストラリアから早めに帰国して私たちの会にご参加くださったことは本当にありがたいことだと思っています。他にも松野博一官房長官・拉致問題担当大臣など国会議員、全国の地方議員の方をはじめ多くの皆様にご参加いただき、被害者救出に向けた意識を改めて固め合うことができました。
2021年12月に亡くなった「家族会」(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)前代表の飯塚繁雄さんが11月の国民大集会で「あきらめない」ということを3回おっしゃいましたね。横田めぐみさんの拉致から45年、「家族会」結成から25年、日朝首脳会談から20年と、本当に長い期間がかかってしまいましたけど、諦めない、本日のテーマの「遂げずばやまじ」ということを確認する国民大集会になったと思います。

横田 「諦めない」という飯塚さんの言葉は、3代目の代表である私自身へのメッセージだと受け止めています。

西岡 私たち「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)は「家族会」と共に救出活動に取り組んできたわけですが、いまだにすべての被害者を助けられないでいることが本当に悔しいですね。それでもただ一つ言えるのは、救出運動をやめてしまったら絶対に助けられないということなんです。その意味で救出の努力を諦めない、続ける以外に道はないと。

横田 国民大集会でもいろいろな方が20年の節目ということを異口同音におっしゃっていて、その節目自体には確かに意味があることだと思いますが、当事者である我われにとっては毎日が節目なんですね。
歴史をさかのぼると1977年にめぐみがいなくなって20年間はまったく手懸かりがない時代でした。それこそ生きているのか死んでいるのか、事故なのか自殺なのか誘拐なのか、当時の言葉で言うと「蒸発してしまった」状態で、私たち家族は生き地獄の毎日を過ごしていました。
それで日朝首脳会談が開かれると分かった時に、「めぐみとようやく会える」と根拠のない楽観的なあわい期待を持ったんです。一方で北朝鮮という国が通常ではない国家であることがおぼろげに分かってきて、「北朝鮮に生存していても、めぐみはすぐには帰国できないかもしれないな」と。そういう複雑な気持ちが交錯したのが20年前でした。
それから今日まで「家族会」と「救う会」、拉致議連合同で国内での講演会や集会、訪米活動を繰り返し、事態を一歩前進させようと努力はしてきましたが、20年続けてきて意志の結束はできたけれども、結局は政府が答えを出せていない。変わらない答えだけをいつも直視しなくてはいけない。いまだにそのようなつらい状況が続いているんです。

「家族会」代表

横田拓也

よこた・たくや

昭和43年東京都生まれ。52年9歳の時に姉の横田めぐみさんが13歳で北朝鮮に拉致される。平成9年「家族会」(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)が結成。28年事務局長。令和3年12月に3代目代表に就任。

実名を公表した家族の決断

西岡 めぐみさんが13歳で新潟の海岸から拉致された時、拓也さんは9歳だったそうですね。

横田 はい。いろいろなところでお話ししていますが、双子の弟である私と哲也から見た目線でも、親からの目線でも、めぐみはいつも明るくてほがらかで快活で、食卓を囲む時はいつも中心にいて場をなごませていました。勉強も読書も大好きで、学校の中で一番よく本を借りていたということを後に先生から聞いたことがあります。いなくなる直前は中学校のバドミントン部に入っていて、練習は辛いけれども頑張ると言って通学していたのを覚えていますね。
当時、プロレスが流行はやっていたこともあって、私と哲也はよく取っ組み合いの喧嘩けんかをしたんです。だけど、双子でも少し体が大きい私のほうがいつも悪役で(笑)、めぐみからも「拓也、やめなさい」とよく注意されました。ある時、めぐみとも喧嘩をしてしまい、めぐみが大事にしていた人形を怒りに任せてぶん投げて壊してしまったことがあります。でも、そこは姉の貫禄というのか、涙を流しながらも歯を食いしばって私を怒らないんですね。

西岡 そうでしたか。

横田 新潟に引っ越す前、広島にいた頃にはいろいろなところに家族旅行をしていて、父・しげるは写真が趣味でしたから、家族が楽しむ多くの場面を撮影してくれました。そのようにどこにでもある平和な家庭の1枚1枚の写真が、後に救出運動のシンボルとして使われるようになったのはとても皮肉だと感じますし、逆に言えば、父が撮った写真から家族の幸せが伝わってくるからこそ、問題を動かす原動力になったのかもしれません。
実は、めぐみが拉致されたことが濃厚になって、実名を出すか出さないかという話になった時、新潟県のYさんやMさんでは誰の関心も呼ばないから、リスクを覚悟してでも「横田めぐみ」という名前を出そうと決断したのは父なんですね。当時、北朝鮮は拉致を否定していましたから、そんなことをしたらめぐみが殺されるかもしれないと父以外の家族3人は強く反対したんですけど、いや出すべきだと。父が本当にめぐみを可愛かわいがっていたことを私はよく知っていましたし、その決断に男親として父の姿を見る思いがしました。

1972年、広島県在住の頃の横田家の家族写真。拉致はこの家族の幸せを奪った

西岡 「家族会」が結成される頃から、私も横田さんご家族のご苦労の一端を目の当たりにしてきましたが、誰の理解も得られない本当に長く辛い期間を過ごされてきましたね。

横田 子供だった私も小学生から中学生にかけて、友達に指を差されて「横田めぐみ、いないいない」と揶揄やゆされ、嫌な思いをしたことが何度もあります。家庭の中でも昨日までの明るい食卓はが消えたようになって、子供ながらにめぐみの名前を出してはいけないと思うようになりました。めぐみがいつ帰ってきてもいいように、両親は毎晩玄関灯をつけたままにしていて、そのことはいま思い出しても涙が出てきます。
しかし、そういう中にあっても両親は、私たち兄弟の前で決して取り乱したり泣いたりすることはなかったですね。いま思うと気丈に振る舞っていたのでしょうが、それまでと少しも変わらない姿で私たちに接してくれました。

西岡 ああ、いつもと変わらない姿で。

横田 3年ほど前、母・早紀江さきえの講演を舞台そでで聞いていた時、私たちが学校に行った後に一人で大声を出し畳をきむしって泣いていたと話していて、子供としていかに大人の苦しい現実を見てこなかったかを思い知ったんです。
私が友達から揶揄されていたように、両親もまた親の監督不行き届きだといった心ない言葉をたくさん投げ掛けられ、指を差されていたのだと思います。
そういえば、めぐみが拉致された年か翌年だったと記憶していますが、父と一緒に風呂に入ろうと思って風呂場に入ると、私に背中を向けて髪にお湯を掛けながら息を殺して泣いているんです。父は家庭でもテレビで見せるようなニコニコした笑顔でいて、亡くなる直前までそうでしたけれども、実際には辛く悲しく、怒りに満ちたものを持ちながらも、世間の皆さんに関心を持ってもらえるように常に笑顔を保ち、言葉を選んで優しい口調で語っていたのだと思います。
それを思うと、両親共に力強い生き方をしてきたのだと改めて感じますね。

「救う会」会長

西岡 力

にしおか・つとむ

昭和31年東京都生まれ。国際基督教大学卒業、筑波大学大学院地域研究科修了。平成2~14年月刊『現代コリア』編集長。29年3月まで東京基督教大学教授。現在は「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)会長。東京基督教大学教授を経て、モラロジー道徳教育財団教授、麗澤大学客員教授。平成26年正論大賞受賞。著書に『横田めぐみさんたちを取り戻すのは今しかない』(PHP研究所)『日韓「歴史認識問題」の40年』(草思社)など多数。