追悼・牛尾治朗氏

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    去る6月13日、ウシオ電機創業者の牛尾治朗氏がお亡くなりになりました。享年92でした。

    牛尾氏は1931年兵庫県生まれ。東京大学法学部を卒業後、東京銀行(現・三菱UFJ銀行)を経て、急逝した父親が残した牛尾工業の再建を手懸けます。1964年、33歳の時に同社から分離独立してウシオ電機を創業。以来50年以上にわたり経営の一線に立ち続け、同社を産業用ランプで世界首位の優良企業へと育て上げました。

    その一方で財界活動にも積極的に取り組み、土光臨調の専門委員や経済同友会の代表幹事などを歴任。さらに政府の経済財政諮問会議の民間議員として、小泉内閣の構造改革を後押しするなど、一企業の枠を超えた幅広い活動を通じて日本の成長に多大な貢献を果たしてこられました。

    『致知』の編集方針に深い共感を寄せてくださっていた牛尾氏は、弊誌が創刊記念等の節目を迎える度に心のこもった推薦メッセージを寄せてくださり、『致知』を応援し続けてくださいました。誌面でも多数の有力者と対談を重ね、多彩な活動や、祖父の代から親交のあった安岡正篤師との縁を通じて培われた見識をもとに、リーダーの条件や日本の進むべき道を示唆してくださいました。

    1998年4月号より寄稿を始めていただいた「巻頭の言葉」は、2020年1月号まで22年近くにも及びました。「to do good を考える前にto be goodを目指しなさい」「水到りてきょ成るが如し︱水が流れると溝ができるように、徳を備えれば自ずと条件が整い事は成る」等々、人生や経営の指針となる貴重な提言は、毎回大きな反響を呼びました。

    5年前の『致知』創刊40周年に際しては、

    「一つの雑誌が40年もの歴史を刻むのは稀有けうなことであるが、『致知』にはここで立ち止まることなくさらに前進を続けてほしい。私も次の50周年まで現役を貫き、この雑誌と共に学び続けていきたいという心意気である」

    とのメッセージを寄せていただきました。弊誌はこの言葉を心に刻み、さらに精進を重ねていく所存です。

    生前のご厚情に感謝申し上げますと共に、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

    穏やかながら揺るがぬ信念の人

    茶道裏千家前家元

    千 玄室

    牛尾家と裏千家は大変ご縁があり、牛尾家の初代・牛尾健治氏が第14代淡々斎家元のもとで、ご夫妻でお茶を習得され、神戸の名家として、裏千家老分の職にも就いていただきました。

    生田いくた神社の近くに今もある大きなお屋敷には、珍しく千石船を模した船のお茶室も造られて、茶道界に大きなご貢献をいただきました。

    そして、阪神のエリアに数寄者すきしゃによる今日会をおつくりいただき、初代の会長にお就きいただきました。

    ご子息が2人いらっしゃって、ご長男は私と同年代の方でしたが、残念ながらお亡くなりになり、ご次男の治朗さんが東大を卒業されてから父上の事業の一つの電気の事業を受け継がれて、ウシオ電機を創設されました。

    牛尾治朗氏は大変才能のある方で、日本青年会議所の会頭も務められて、多くの若い青年実業家たちから慕われ、また、非常に柔和で誠実なご性格をもって財界活動に当たられた著名な実業家の一人になられたのです。

    経済同友会の代表幹事、また小泉内閣では、経済財政諮問会議議員にもなられ、日本の政治、また、日本の将来の経済的な大きな基盤を作られた方でもあり、その功績は大変大きなものでございます。

    私との出会いは、治朗さんが大学を卒業されて社会人となられてから青年会議所に入会され、お目にかかりました。私も日本青年会議所の会頭をしておりまして、それからずっと長い間のご縁です。

    お父さまのご逝去の後はお茶もたしなまれ、当代の坐忘斎ざぼうさい宗室家元の時代に老分として、茶道界発展のために大きなご支援をいただくこととなりました。

    性格は非常に穏やかな人でありますけれど、信念は曲げず、特にフランスの哲学者アランの教えを大事にしながら、日本の哲学にも深い造詣をお持ちでした。秀才型の実業家、しかも実力がある方で、非常に惜しい方を失って誠に心が痛み残念に存じております。

    広い視野と長期の視点で世界と日本を考えるスケールの大きな経営者

    キッコーマン株式会社 取締役名誉会長、取締役会議長

    茂木友三郎

    牛尾さんの訃報に接し、心からご冥福をお祈りいたします。

    牛尾さんとの出会いは、いまから50年以上前。当時、牛尾さんがリーダーを務めていた1960年代から20年先の世界を考える「80(ハチマル)会」という会合が最初でした。それ以来、数えきれないほどの関係が続いておりました。

    4歳上の先輩ということもあり、「立派な兄貴分」として尊敬しておりましたし、牛尾さんも私を信用してくださいました。

    1995年、牛尾さんが経済同友会代表幹事に就任された時には、私が副代表幹事に指名を受けました。牛尾同友会として一時代を築かれ、大きな功績を残されました。私が現在会長を務めている日本生産性本部では、牛尾さんからバトンを受け取りました。

    また、私の出身地である千葉県野田市に青年会議所を立ち上げる際に、日本青年会議所の会頭を務められた牛尾さんにサポートをしていただき、無事、発足することが出来ました。

    政府との関係も長く、深いものでした。大平政権から安倍政権まで、長い間多くのアドバイスをされました。特に、小泉政権時の経済財政諮問会議において、民間議員として重要な役割を担ったことは特筆すべきことと思います。

    このように牛尾さんは、一言で言えば、広い視野と長期の視点で世界と日本を考えるとてもスケールの大きな経営者でした。

    プライベートでは、それぞれ夫婦で会食をしたり、ゴルフを楽しんだりと、公私共に多くの時間を共有してきました。

    『致知』2013年1月号特集「不易流行ふえきりゅうこう」では、対談の機会もいただきました。停滞する日本経済を深く憂慮される一方で、ご自身で立ち上げられたウシオ電機が間もなく創業50周年の節目を迎えるのを機に、創業理念の再検討に取り組んでおられるとのお話を伺い、その衰えることのないバイタリティに深く感銘を受けたものです。

    まだまだ思い出は尽きません。改めて生前の多くのご功績に敬意を表しますと共に、 心からご冥福をお祈りいたします。

    「俺が面倒を見るから」と背中を押され

    株式会社オリエンタルランド 代表取締役、取締役会議長

    加賀見 俊夫

    この度の訃報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。

    牛尾さんとは、お互いに〝言いたいことを言う性格”が共通していたのか、初めてお話しさせていただいた際よりすぐに意気投合致しました。常々、「我が国経済と社会の成長にはレジャー・サービス産業の発展が不可欠」と説かれており、大所高所より様々なご助言を頂戴致しました。

    最も印象深いのは経済同友会のエピソードです。

    もともと私は地元・千葉を中心に活動しておりましたが、「レジャー産業を発展させるには、貴方が先頭に立って業界のプレゼンスを高めなさい。そのためには東京に活動の拠点を置き、ネットワークや考えの幅を拡げるべき。俺が面倒をみるから」と心強く背中を押され、その後私は経済同友会の副代表幹事に就任させていただきました。

    在任中も度々意見交換を重ねては、視野・視点・視座に拡がりと深みを与え続けていただき、価値判断基準も大きく変わり、また財界でのご縁にも多々恵まれ、弊社事業の経営判断にあたってもたくさんの影響を受けました。

    牛尾さんの、日本の将来を担う後進育成に対する情熱と愛情なくして、いまの私や業界の発展はなかったと言っても過言ではありません。

    また牛尾さんとは、この月刊『致知』2019年5月号特集「枠を破る」で対談をご一緒させていただいた時のことが既に懐かしく思い返されます。

    ご生前のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。牛尾さん、本当に有難うございました。

    日本の良心

    JFEホールディングス名誉顧問

    數土文夫

    牛尾治朗氏の訃報に接しました。哀惜あいせきの念に堪えません。牛尾氏には約20年前、知人の紹介で面識を得ました。以来、種々助言、指導を受けてきました。「健全な市場経済と民主主義政治の並列があってこその日本」という強い信念が伝わってきました。その信念は氏の国家観、世界観、歴史観に基づいており、えりを正して聴かざるを得ないものでした。終生の読書家、勉強家である一方、広い交友関係もあって、当代随一の情報発信者でもあり、受信者でもあったと思います。

    私には個人的に有難く、印象深いことがあります。2014年春、私の東京電力会長就任に際し、氏は、稲盛和夫氏、飯田まこと氏と共に声をかけてくださり、会食の機会を戴いたことです。お三方は第二電電(現KDDI)創業時、苦楽を共にされた盟友関係にありました。当日初めは、お三方、創業時、共に共有した多事多難、苦労話をかいだん風に盛り上がり私を聴き役にしておられましたが後半は一転、説教調になり、最近の若い経営トップに対する厳しい苦言になりました。要は、(1)いまの経営者は安易に収益の下方修正をし過ぎる。
    (2)危機に際し、リスクばかり心配し、チャンスを見逃している。
    (3)経営トップの人相がよくない。知性、徳、厳しさ、華やかさ、全く感じられない。
    牛尾氏のリードの下、お三方の談論風発は3時間におよびました。誠実、偉大なお三方は、昨年から相次いで鬼籍に入られました。牛尾氏は中でも日本の良心でした。合掌。

    進歩・変化に前向きな姿勢に魅了されて

    大和証券グループ本社名誉顧問

    鈴木茂晴

    ウシオ電機の創業者であり、名誉相談役であった牛尾治朗様のご逝去に、心よりお悔やみ申し上げます。

    牛尾様は私にとってかけがえのない方であり、多大なご支援をいただきました。常に最新の情報を取り入れ、技術の進歩・変化に対して前向きに取り組まれていた牛尾様の精神は、ウシオ電機を「常に最先端の技術を追求する企業」として発展させた原動力であり、牛尾様からは数多くのアドバイスを頂戴致しました。特に、その「進歩・変化に前向きな姿勢」には魅了されました。

    私が働き方改革や女性活躍の推進に取り組むことができたのも、牛尾様からの刺激があったからこそです。改めて御礼申し上げます。

    牛尾様のご逝去は、日本の政財界にとって大きな損失であります。現在、私たちは変化の激しい時代を生き抜かなければなりません。そのためにも、牛尾様の精神を受け継ぎ、変革を恐れることなく時代を切り開いていくことが大切です。牛尾様の遺志は永遠に忘れられることはございません。

    牛尾様のご冥福をお祈りいたします。

    その遺志を胸に新しい国造りへの貢献を決意

    公益社団法人経済同友会代表幹事

    新浪剛史

    牛尾治朗元代表幹事のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。

    牛尾元代表幹事は1959年に経済同友会に入会され、1995年4月に代表幹事に就任されました。「変革の時にリーダーシップをとれる最適の人」と速水前代表幹事よりバトンを受けた牛尾元代表幹事は、21世紀の日本のために「世界への参画」と「市場の再設計」を軸に日本経済を再生することを唱えられました。

    当時、国内ではバブル経済が崩壊し、金融機関が不良債権を抱える中で、世界経済はグローバル化が進展し、市場の一体化が加速していました。日本固有の経済システムが大変革を迫られていた時代に、牛尾元代表幹事は、危機感と改革への強い決意をもって「日本の経済システムを、先進諸国と共通のルールによって運営される透明な市場経済に転換すべき」と主張され、内外から大きな注目を集めました。

    また、民間活力を引き出すための構造改革として、橋本政権の六大改革を強力に後押しされました。提言や意見の発表のみならず、経済同友会の当時の主だった幹部が、様々な政府の会議体に参加すると共に、民営化組織の責任者に就任されたことは、改革を先導する政策集団らしい、経済同友会の真骨頂でありました。まさに牛尾元代表幹事は、経済同友会の歴史に輝かしい一つの時代を築かれました。

    牛尾元代表幹事は、ご講演では「to do good の前にto be good」「俗望を捨て、雅望がぼうに生きよ」をよく用いてご自身を戒め、「霧の中を歩めば、覚えざるにころも湿る」を心に刻み、人との出会いやご縁を大切にすることの重要性を説かれました。このように人間的魅力あふれる牛尾元代表幹事だからこそ、経済界や政界を超え世代を超えて、多くの方々に慕われ、愛されていたのだと思います。

    個人的に親しく交流させていただくようになったのは、私が前職のローソン社長に就任してほどなく牛尾元代表幹事を囲む勉強会に参加させていただいた時からでした。私の活動を気に掛け、折に触れて貴重なアドバイスを賜ったことは感謝に堪えません。私が財界活動や国際会議に積極的に関わるようになったのも、牛尾元代表幹事から視野を広げて世界を見ること、国に奉仕することの大切さを説いていただいたからです。

    そうしたご縁もあり、『致知』2015年1月号特集「堅忍不抜」では対談の機会をいただきました。日本の先行きに対する強い危機感を示された上で、大平正芳元首相の「孤に徹し衆と和す」という言葉を引き、確固たる信念と和の心を併せ持ったリーダーとして活躍するよう期待を寄せていただいたことを、心に刻んでまいりました。

    いま、ウクライナ危機を契機に国際秩序と世界経済が難しい局面に直面しており、日本経済も変革の最後のチャンスを迎えています。生涯をかけて改革に果敢に挑戦し続け、日本経済の発展に貢献された牛尾元代表幹事の遺志を胸に、在りし日を偲びつつ、改めて新しい国造りへの貢献を決意したいと思います。

    心よりご冥福をお祈り申し上げます。

    俗望を捨て、雅望に生きよ

    ウシオライティング会長

    牛尾志朗

    父は2020年5月にウシオ電機の会長を退いて以来、ほとんど表舞台に立つことはありませんでした。元気な頃、あれほど多くの方々と結んでいた交友が絶えて久しかったこともあり、訃報が思いの外大きく取り上げられたことに、改めて父の偉大さを実感しました。

    死に顔は実に穏やかでした。生前はウシオ電機の経営に加え、政財界で様々な要職を歴任してきただけに、ようやく重責から解放され安堵あんどしているようにも思います。いま頃は向こうで、先に逝った母や、トヨタ自動車の豊田章一郎さん、京セラの稲盛和夫さん、セコムの飯田亮さんら、親しい方々と楽しくやっていることでしょう。

    外では華々しい活躍をしてきた父ですが、子育ては母任せでした。教訓めいたことといえば、「相手の気持ちになれ」と言われたことくらいです。しかし私は、人生の大半を父と同じ屋根の下で暮らし、ウシオ電機やグループ会社のウシオライティングで経営も担ってきました。「父ならこうするだろう」と考えて行動するのが習い性となっており、父から受けた影響の大きさをいまさらながらに実感しています。

    父が見事だったのは、本業の光源事業をブレることなく最後まで貫いたことと、常に長期的な視点で経営に臨んでいたことです。私はこの2つを父の教訓として心に刻み、経営に邁進まいしんしています。

    父は、本誌『致知』に大きな共感を寄せていました。長らく寄稿を続けた「巻頭の言葉」には、激務の中でかなりのエネルギーを費やしていたのを知っているだけに、大きな反響をいただいていたことは私もとても嬉しく思っています。

    父の治朗という名の濁音を取ると、志朗という私の名になります。命名の理由を尋ねたことはありませんが、濁りのない人間になってほしいと願ったのだろうと受け止めていました。

    改めて父の「巻頭の言葉」を読み返してみると、「俗望を捨て、雅望に生きる」という記事が目に留まりました。俗望は我欲にもとづく欲望であるのに対し、雅望は我欲の枠を超えた高い志。父は「雅望に生きよ」という願いを私の志という名に込めてくれたに違いない。そう受け止め、父に恥じない人生を歩んでいくことを新たに心に誓った次第です。

    その名を見事に体現した人

    致知出版社代表取締役社長

    藤尾秀昭

    牛尾治朗氏とのご縁は1984年、安岡正篤先生の訃報を受け追悼号を発刊した際に取材をさせていただいたのが始まりでした。

    『致知』は創刊時より、安岡先生の説く人間学をベースにした編集方針を貫いてきました。牛尾氏はこの編集方針に深く共感を寄せてくださり、それ以来『致知』誌上で様々な有力者と対談を重ねてくださいました。

    「巻頭の言葉」には、1998年4月号から2020年1月号まで22年近くにわたって寄稿を続けてくださり、その時々の社会情勢を踏まえたリーダーのあり方を的確に示していただきました。読者の方々からの反響も大きく、牛尾氏の「巻頭の言葉」を楽しみにしているとの声が多数寄せられていました。

    また、2003年の『致知』創刊25周年記念式典と、2006年の「『致知』愛読者の集いin沖縄」では、それぞれ1,000人を超える愛読者の前で講演を賜りました。特に沖縄でのご講演では、牛尾氏が沖縄と深く関わり、その発展に寄与されていたことを知り、大変感銘を受けました。

    安岡先生のりくちゅうかんに「ちゅうひとあり」という言葉がありますが、牛尾氏はその天性の明るさで各界に幅広い人脈を築いてこられました。政府の経済財政諮問会議で議員を務めていた際、りそなグループの再建を託すリーダーとして、国鉄の民営化で実績を上げた細谷英二氏を推薦して成功に導くなど、各界をつなぐパイプ役として要所にしかるべき人物を配する手腕は、顔の広さと人を見抜く眼力の確かさを併せ持つ牛尾氏の真骨頂でした。

    私は牛尾氏との40年近くにわたる交流の中で、数え切れないほどの教訓を賜りましたが、特に忘れ難いお話が2つあります。

    1つは、家業の牛尾工業を継がれた時のお話です。若い頃にアメリカへ留学し文化人を志していた牛尾氏は、父親の急逝で図らずも牛尾工業の再建に取り組みました。その時牛尾氏は、「自分は必要としなくても、相手が必要とする時は、その必要のために生きるのも一つの実存」というサルトルの言葉を思い出し、家業を引き継ぐ決断をなされたそうです。

    牛尾氏は当時を振り返り、人生は思い通りにならないこともあるが、時には相手の必要と期待に応え、それを自らの使命と捉えることも大切だと述べています。その言葉通り、牛尾工業から分離独立して立ち上げたウシオ電機を、世界的な優良企業へと育て上げた牛尾氏の生き方には心を打たれます。

    もう1つは、時間は音譜であるというお話です。ベートーヴェンの『運命』の楽譜は一つですが、それを小澤征爾せいじが指揮するのと、カラヤン、バーンスタインが指揮するのとでは演奏時間も曲の強弱も全く違う。自分に与えられた時間をどう生かし、何を創造するかはその人次第であり、一人ひとりが人事を尽くし、豊かな人生を築いていくことが大事だと訴えられました。

    牛尾氏は、そのお名前が示す通りに人を治め、自らを治め、朗らかな人柄によって多くの人々と交流を重ね、政財界に多大な影響を及ぼしてこられました。

    ご生前の一方ひとかたならぬご厚情に深謝申し上げますと共に、衷心よりご冥福をお祈り申し上げます。