2021年3月号
特集
名作に心を洗う
対談
  • (左)作家加賀乙彦
  • (右)文学博士鈴木秀子

我が人生を導いてくれた
古今の名作

作家で精神科医でもある加賀乙彦氏は91歳のいまも、精力的に執筆活動を続けている。 その人生や活動を支えたものは、幼い頃から親しんできた古今東西の様々な名作だった。加賀氏と同様、戦争を乗り越え文学と信仰に人生の信条を求めてきた文学博士・鈴木秀子さんと共に、文学作品の魅力を語り合っていただいた。

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芭蕉に教わった日本語の世界に遊ぶ楽しみ

鈴木 加賀先生は作家として活躍されるだけでなく、カトリックの信仰をお持ちの熱心なクリスチャンでいらっしゃいますから、ぜひ一度お会いしたいと思っていました。きょうは先生が名誉館長を務められる文京区立森鷗外おうがい外記念館で、直接お話を賜れることをとても嬉しく思っています。

加賀 文学博士でもある鈴木先生に声を掛けていただき、僕も光栄です。

鈴木 実はこの間も長野に行った際、先生が館長をお務めの軽井沢高原文庫館に立ち寄り、軽井沢の文学を堪能たんのうしてきたばかりなんです。先生は91歳になられたそうですが、最近も『わたしの芭蕉ばしょう』という本を出されていて、とても興味深く拝見しました。

加賀 そうですか。それは嬉しいですね。おかげさまでこの本はとても好評なんですよ。
僕は若い頃からヨーロッパやロシアの文学に親しんできましたが、特に作家として生きるようになってから日本の古典文学をよく読むようになりました。作家として日本語の表現をいかに豊かに、簡潔に、美しく磨いていくかに苦心してきたわけですが、平安、鎌倉時代の文学にその模範とすべきものが多くあることが分かってきたんです。
鴨長明かものちょうめいの『方丈記ほうじょうき』、吉田兼好けんこうの『徒然草つれづれぐさ』の美しい言葉を引き継いだのが松尾芭蕉で、美しい日本語の世界に遊ぶ楽しみを僕に教えてくれました。芭蕉の句集や研究書などは多くありますが、その中で出合ったのが井本農一のういち先生注解による句集でした。これには大きな影響を受けましたね。

鈴木 井本先生は国文学者、俳人として活躍された方で私もよく存じ上げています。長年、お茶の水女子大学で教えていらして、晩年は聖心女子大学に移られ、私と同じ日本文学を学生たちに教えておられました。とても偉い先生なのに、そういう素振りはまったく見せることなく、後輩の私たちにも対等に接してくださる、穏やかで学識豊かな素晴らしい先生でした。

加賀 ああ、そういうご縁があったのですね。僕は本でしか出会ったことがないから羨ましい。
井本先生の研究のどこが素晴らしいかというと、芭蕉の作品を制作順に配列されたことです。それによって推敲すいこうの跡が分かり、初句から最終句に至る道筋が分かる。そこから見えてくるのは一句であろうとも決しておろそかにしないという俳人芭蕉の気迫です。
調べていくうちに、芭蕉は中国古典『荘子そうじ』に大きな精神的影響を受けたことも分かってきました。芭蕉という人物と作品は、とにかく奥が深いんです。

鈴木 加賀先生が井本先生の本を通して芭蕉の新たな魅力を掘り下げられたことを、天国の井本先生もきっとお喜びだと思います。

文学博士

鈴木秀子

すずき・ひでこ

東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。聖心女子大学教授を経て、現在国際文学療法学会会長、聖心会会員。日本にエニアグラムを紹介し、各地でワークショップなどを行う。著書に『自分の花を精いっぱい咲かせる生き方』『幸せになるキーワード』(共に致知出版社)『こども聖書』(すばる舎)『死にゆく人にあなたができること』(あさ出版)など多数。

人生の転機となった戦争体験

鈴木 加賀先生と私には、他にもいくつかの共通点があると思うのですが、その一つはやはり戦争という同じ体験をしたことです。

加賀 そうですね。僕の一番古い記憶は幼稚園の時の二・二六事件で、小学校の時に太平洋戦争が始まりました。そして、陸軍幼年学校在学の1945年、16歳で終戦を迎える。つまり僕の少年時代のほとんどの期間、日本は戦争をしていたわけです。
きょうの対談は文学がテーマですが、小学4年生の頃から家にあった世界文学全集の『モンテ・クリスト伯』などの長編に挑戦したりしましたね。周りに本好きの子はいたけれど、僕みたいに長い小説を読む友達はいなかった。長ければ長いほどいい小説だとその頃から思っていたんです。僕が20年以上をかけて『永遠の都』という自伝的な大河小説を書き上げたのも、長い小説を書くのが若い頃からの夢だったからです。
小学生の頃は、友達の家に自転車で遊びに行き、自転車にまたがったまま窓越しに借りた本を何時間も読んで、暗くなったら「じゃあさよなら」と友達と遊びもせずに、そのまま帰ったという思い出もあります(笑)。

鈴木 時間を忘れるほど、読書に没頭してしまったんですね。

加賀 中学に入ると、夏目漱石やトルストイなどの文学にも触れるようになりました。漱石は『坊っちゃん』『吾輩わがはいは猫である』まではよかったのですが、『こころ』でつまずきました。「先生」が自殺する理由が分からず、母に聞くと丁寧に教えてくれたんです。母は小説読みのよき先生でしたね。
名古屋陸軍幼年学校に進んだのは父親がそれを希望していたからです。しかし、戦況は日増しに悪化を辿たどり、僕も日本が負けることは予想していました。8月15日、全員の生徒が集められ玉音ぎょくおん放送を聞いた時、皆号泣していて、しばらくは敗戦という事実を受け入れられない仲間もいましたが、僕自身は「これで命は助かったな」「ああ死なずに済んだな」というのが正直な思いでした。
終戦の翌日だったか、宮城(皇居)で将校が自殺したという情報が流れ、それに続こうという仲間もいました。だけど、しばらくするとその声も消えていきました。人間はこんなにも変わりやすいものなのかと思ったものです。幼年学校に在籍していたことが分かると殺されるというデマが流れ、学籍簿から成績表まで数日を掛けて消却するということもやりました。

鈴木 そういう時代でしたね。私も終戦時に受けた大変なショックはいまも忘れることができません。それまで「陛下のお写真が掲げられた奉安殿ほうあんでんや神社の前では必ずお辞儀をしなさい」と厳しく指導していた教頭先生が、終戦を境に「いつまでも奉安殿や神社の前でお辞儀をする馬鹿者がいる」とおっしゃるようになったんです。
終戦から一か月後の授業で最初にやったのは、教科書でいままで大切だと言われていた部分に墨を塗ることでした。まるで自分の心に墨を塗るように、大事にしていたものをすべて否定されたような感覚でした。それまで信じていた価値観が一度すべて断ち切られて、それを埋め合わせるものを求めなくてはいけなくなったんです。
私はどのように時代が変わろうと変わることのない神、キリストという信仰の世界に行き着くわけですが、子供の頃から親しんできた小説の世界も大きな心の支えでした。夏目漱石、志賀直哉などあらゆる作品を読んでは自分を勇気づけていましたね。

加賀 戦争が終わると、僕は編入試験を受けて高等学校に入学しました。飢えをしのぐのに精いっぱいでなかなか勉強が手につかない時代でしたが、新学期が始まるまでの間に徹底して読んだのが『トルストイ全集』です。こっちは食うものもない敗戦国の少年でしたから、『戦争と平和』にある、豪勢な料理を大盤振る舞いするロシアの貴族たちの場面に圧倒されたものですよ(笑)。
それからしばらく経つとドストエフスキーなどを好んで読むようになりました。ドストエフスキーは医者の息子なんです。ロシアには僕のような医者兼作家がたくさんいますが、医学的なものの考え方と文学的なものの考え方にどこか通ずるものがあるのでしょうね。
ドストエフスキーの面白いところは悪い人間ばかりを描くんです。そして、それを一つの文学として仕立てていく。僕が拘置所の精神科医になった背景には、そういう作品を多く読んだ影響があったのかもしれません。

鈴木 犯罪者の心を救済することに、自然に目が向いていったのですね。

加賀 これは拘置所の医者になって分かったことですが、ひと口に死刑囚といってもいろいろなタイプがいるんです。それはドストエフスキーが『死の家の記録』で描き分けている人間のタイプと見事に一致している。非常に乱暴な者、頭はいいけど全く罪の意識がない者、大人しくて人の言いなりになる意志薄弱な者、それから陽気でいつも歌を歌っている者……この分析には驚きました。一人の医者という立場から見ても、ドストエフスキーは実にすごい作家だと思います。

作家

加賀乙彦

かが・おとひこ

昭和4年東京生まれ。東京大学医学部卒業。フランス留学後、パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務。犯罪心理学・精神医学の権威でもあり、作家としての活動の傍ら東京拘置所医務部技官、上智大学文学部心理学科教授などを歴任。『フランドルの冬』で芸術選奨文部大臣新人賞、『宣告』で日本文学大賞、『永遠の都』で芸術選奨文部大臣賞を受賞したほか入賞多数。近刊に『わたしの芭蕉』(講談社)『ある若き死刑囚の生涯』(ちくまプリマー新書)など。日本藝術院会員。文化功労者。文京区立森?外記念館名誉館長。