2026年2月号
特集
先達に学ぶ
わが人生の先達①
  • 作家北 康利

二宮尊徳の記憶を
現代によみがえらせる時

江戸末期、小田原藩領の農家に生まれ、困窮の中から身を起こし、生涯に600余の荒廃した村々を復興させた二宮尊徳。松下幸之助や稲盛和夫といった名経営者が仰いだその教えは、現代日本で忘れ去られつつある。このほど、本誌で17回にわたり連載され人気を博した評伝「二宮尊徳 世界に誇るべき偉人の生涯」を弊社より装い新たに上梓した北康利氏に、その偉功を紐解いていただいた。
【絵=今井爽邦作/尊徳記念館所蔵】

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    作家

    北 康利

    きた・やすとし

    昭和35年愛知県生まれ。東京大学法学部卒業後、富士銀行入行。富士証券投資戦略部長、みずほ証券業務企画部長等を歴任。平成20年みずほ証券を退職し、本格的に作家活動に入る。著書に『白洲次郎占領を背負った男』(講談社、第14回山本七平賞受賞)『思い邪なし 京セラ創業者 稲盛和夫』(毎日新聞出版)など多数。最新刊に『二宮尊徳 世界に誇るべき偉人の生涯』(致知出版社)がある。

    新著『二宮尊徳』に込めた思い

    過去に松下幸之助や稲盛和夫の評伝を書いてつくづく思ったのは、彼らは〝経営の神様〟と呼ばれただけあって、経営においても人生においても一つの真理を悟った人だということであった。真理を悟ると応用が利く。松下幸之助が言うところの〝天然自然の法〟である。

    ところがこの〝天然自然の法〟という言葉は松下のオリジナルではない。松下や稲盛が崇拝してやまない人物が口にしたものだ。それが二宮尊徳であった。

    話はそれだけにとどまらない。私は安田善次郎も渋沢栄一も書いているが、彼らもまた二宮尊徳の信奉者だった。

    銀行王として巨万の富を築いた安田の人生には、尊徳の教えに忠実であろうとした痕跡が濃厚に残っている。彼は富田高慶たかよし著の『報徳記』を何冊も常備しており、来客の土産として渡していたほどだ。これは安田の評伝を書いた後に知った事実で、どうして自分はもっと早く二宮尊徳を徹底的に研究しなかったのかという焦りにも似た感情を抱いた。

    そして調べれば調べるほど、二宮尊徳は日本史上、いや人類史上、きつりつした巨人であることがわかってきた。

    極めつけが、拙著の冒頭に掲げているしゃのこうさねあつの言葉である。時空を超えた先達から活を入れられた気持ちがした。

    〈二宮尊徳はどんな人か。かう聞かれて、尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあったら、日本人の恥だと思ふ。それ以上、世界の人が二宮尊徳の名をまだ十分に知らないのは、我らの恥だと思ふ〉

    残念でならないのは、二宮尊徳が日本人の意識から薄れていったのは、この半世紀ほどのことだということだ。親の世代までは皆、尋常小学唱歌の二宮金次郎を歌えていた。一番の歌詞は「柴刈り縄ない 草鞋わらじをつくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲良く 孝行尽くす 手本は二宮金次郎」で、3番まであり、すべて「手本は二宮金次郎」で締めくくられていた。

    また小学校には大体、薪を背負い書を読む二宮金次郎像が建っていた。それが今はなんと、〝ながらスマホ〟を誘発するとして撤去され始めているというではないか。二宮尊徳の記憶をもう一度取り戻すには今をおいてほかにない。それが新著発刊の動機であった。

    昨今の我が国を取り巻く環境は、労働生産人口の減少、生産性の低迷、世界一休日の多い国、働き方改革とワークライフバランスの過度な推奨、親と教師を尊敬しない子供たちの増加、戦争が起こっても銃を持たない国民、企業エンゲージメントの低下等々、二宮尊徳が生きた、度重なるきんに苦しむ時代に重ね合わせることができるほど閉塞へいそく感に満ちている。

    それでもなお、二宮尊徳の「報徳仕法」の精神をもってすれば解決可能だと思うのだ。

    近寄ると背筋が伸びるようなの心あふれるせいこころざしを抱き、強固な克己心でぶん(分限)を守りながら懸命に勤労し、貸しつけによる利回しなどレバレッジ付きの「せきしょうだい」を駆使し、いもこじ(現代で言うミーティング)と表彰制度で心の荒れた村民たちをモラルアップさせる(心田しんでんを耕す)など、くがごとくに知恵を動員し、言葉に力を持たせ、批判する前に行動する。そして次世代への深い愛を込めてすいじょう(分度以上に得たものを推し譲ること)する。

    尊徳の生き方を学べば、解決できない課題などこの世にはない。

    自分の家の復興に始まって、二宮総本家の復興、服部家や多くの藩や村々の財政再建など、彼の報徳仕法にははんようせいがあった。

    そのことこそが、松下や稲盛をはじめとする偉大なる先人が尊徳に学ぼうとした所以ゆえんなのである。